ドラゴン→吉川 第四信(復)プールサイド小景

日比谷公園 吉川くん、元気ですか? 5月の下旬はかなりいい天気が続きました。まるでお天道様がぼくの書いた文章を空からインターネットで読んでくれたみたいでした。史上最低5月にはならないですみました。ありがとうございました。といってるぼくはいったい5月のなんなんだろう。5月の妻?5月の使者?5月病?とかいってるあいだに梅雨です。梅雨はいいやどうでも。雨が降っても天気が悪くても。考えてみたらぼくだってそんなにいうほど雨が嫌いなわけじゃない。雨がアスファルトに落ちてきたときの匂いがすると、いつもなにかを思い出しそうになります。それに雨が降る惑星というのはなんだかとてもいい場所のような気がしませんか?惑星と書いて(ほし)と読ませたいほどです。雨が降って海になって、海が蒸発して雲になって、そしてまた雨が降って、というこの循環は、ほとんど感動的ですらある。そしてその感動で流したこの涙さえ、乾けばまた雲になるのです。誰かの願いが叶うころ、あの子が泣いているのです。

あじさい なんていってるけどあんまり雨降らないね。5月よりよっぽど天気がいいじゃないか。あっというまに紫陽花が萎れてしまいました。でも今年は紫陽花が異様なくらい目立って咲いてた気がします(と写真に合わせた文章を挿入)。

 とにかくものすごく暑い。にもかかわらずぼくはニット帽をかぶって外出せざるを得ません。髪が伸びているので美容院へ行かなきゃいけないんだけど、髪が伸びているので美容院へ行けないのです。つまり髪が伸びていてあまりにもみっともないので外出できない。そこでぼくはニット帽をかぶってこそこそと隠れるようにして外出しているわけです。しかしこの暑さにニット帽はない。ありえない。と自分でも半ば思っているわけで、うふふ、見て。ニット帽。暑くないのかしらね。うふふ。あはは。と、あらゆるノースリーブ婦女子からいわれているような気がして、どこへ行ってもすぐに帰ってきてしまうというような毎日です(半分は嘘)。

 近所で家建ててんのがこれまた最悪。梅雨の湿度と建築の騒音、慢性的な空腹という三重苦。それに加えて、にゃあにゃあにゃあにゃあドアを開けろとせがむ猫の鳴き声にストレスを溜めつつ、もう何日もこの往復書簡を書いては消し書いては消しているあいだにも刻一刻と髪は伸びていく一方で、毎度のことながらこれではいつまでたっても埒があかないということにやっとのことで思い至り、「思い切って自分で髪を切ってしまえ」と決心するほどの勇気もついに持ち得ないまま、仕方なくニット帽をかぶりパソコンを持って近くのモスバーガーに行って梅雨の湿度、建築の騒音、慢性的な空腹、猫の鳴き声といった諸問題を一挙に解決しつつこの往復書簡も一気に書き上げてしまえと思うのですが、いざモスバーガーに行くと食べ終わった瞬間に家に帰ってきてしまいます。だって寒いんだもん。「だもんじゃねえよ!」と自分でもいいたい。でも冷房効き過ぎと思いませんか?どこいっても。いったいあの温度は誰に合わせておるのだと問いたい。そして近頃のぼくはどこにいっても冷房の真下に座ってしまうという運命にあるようだ。さ、寒い……。

 で、帰るとすぐに外に出たくなります。帰ってから「あ、そうだった」といつも思い出すのです。近所で家を建ててることを。ぼくはなるべく冷房を使いたくないんですね。だから窓を開ける。するとトンカントンカン非常にうるさい。だからヘッドホンで音楽を聴くことにします。でもヘッドホンをずっとつけてると暑い。ヘッドホンを取ります。トンカントンカンうるさい。窓を閉めます。暑い。モスバーガーに行きます。寒い。帰ります。暑い。窓を開けます。うるさい。ヘッドホン。暑い。ヘッドホン。取る。うるさい。窓。閉める。暑い。モスバーガー。寒い……。

 それでも結局は帰宅します。ぼくの髪を丸ごと隠し外出させてくれると同時に真空パックのように頭部を密閉させてどう考えても余計な汗を流させるニット帽(かつらの人は大変だよなあとつくづく思います)をこれでもかとばかりにまず床に叩きつけます。あついんだよおまえ、と。もはや怒鳴ることさえせず静かに。一人で。まるでこのすべての原因がニット帽にあるのだということを1ミリも疑っていない人のように。とでも書きたくなるような気持ちで。猫が怯えてぴょんと飛びのくこと必死です。するとどうでしょう。まるで水泳帽を取ったときのような解放感。と共に今までかぶっていたのはまさに水泳帽だったんじゃないかという錯覚に襲われるのは、東京の6月が半分は水の中みたいなもんだからではないでしょうか。そして身体はこの湿度の記憶によってかよらぬか存在しない塩素の匂いを嗅ぎ、たちまち床はざらついたプールサイドに変化して、ぼくがプールサイドにおいてもっとも恐れていたこと、すなわち「どういうわけか足の甲側を引きずるようにしてプールサイドを歩いてしまい、そのざらざらっとした面にこすられた足先が傷だらけになってしまう」という物理的には不可能な、不安神経症のような妄想を右足の先の方に感じつつ、ぼくがいつでもプール嫌いだったということをこれでもかというほど思い出させてくれます。

 そう、ほんとにぼくはプールが嫌いだった。それこそ幼稚園から高校にいたるまでずっと。どうしてかというと、ただ単に泳げなかったから、ではなく、背中の全面を覆うように龍の入れ墨があったから、でもなく、人前で裸になるのが嫌だったのです。女の子みたいだな。ぼくはさまざまな手段を駆使してプールに入らないで済む方法を考えました。水泳シーズンが始まっても水着を買わない。サイズの合う水着が売っていなかったので次までに買ってきますと言い訳する。故意に水着を忘れる。水着を持ち帰るのを忘れる。学校を休む。仮病を使う。プールにワニを放す。夜のあいだにプールの水を抜く。学校ごと燃やしてしまう。地震が起きてプールの底がひび割れることを祈る。氷河期になり夏がこの世から消滅することを願う。その他もろもろ。ぼくの記憶では中三のときは一回もプールに入っていません。ついにワンシーズン見学し続けた。頑固にもほどがありますね。でもぼくと同じようにほとんどプールに入らない輩がいて、その面子はいつもだいたい同じで(そのほとんどがいわゆるヤンキー組だった)、プールの中ではしゃぎまわるクラスメイトたちをプールサイドに置かれたベンチの上から、しかし内心では見上げるような思いでちらちらと眺めていたものでした。そして同じ水の中に入ることによって生まれる夏の青空のように広がる爽やか連帯感とはまったく違った、薄暗くじめじめっとした灰色の雲のようなどんより連帯感がベンチに座るぼくたちを否が応でも覆い、それは夏のあいだだけ無言のままその効力を発揮していたのでした。

 ってなんだこれ。青春ノスタルジー小説?どっからこんなことになったんだ。そうか。プールが嫌いとか告白したからいけないんだな。話を変えよう。

 で、なんだっけ。こないだは。そうだ。なに食べてるって話をして、うん、吉川くんが食べてるものがよくわかりましたよ。「なにを食べるか」ってのは実はすごく重要なことなんじゃないかと最近ぼくは思って、というか重要に決まっているわけですが、もっとこう、その、ふつうに重要だといわれているのとは違った形で重要なんじゃないかと思ったんですね。栄養学的、一日三食30品目バランス良く的にではなく。

 ひとことでいうと「なにを食べるか」というのは、ひとつの政治的決断だ、ということになります。別にそんなに大げさにいうこともないんだけど、たとえば、夕食に米を食べるとき、ぼくたちは米に一俵、ならぬ一票入れているわけです。まず自分の身体のために米を食べ、と同時に食文化としての米を肯定する、という身振りとして捉えることができる。ぼくは今日米を食べ、そして明日からも概ね米を食べて生きていきたい。そして100年後も米を食べる国であって欲しい。米を食べることのできる国でいて欲しい。という願いを米に込めている、というわけです。極端に、そしてだじゃれ混じりにいえば。あるいは、マックとモスのどっちを残したいと思うか、どちらを応援するのか、という話でもいい。そしてこういった選択は、現実を変える手段としての力を持つわけではありません。だいたいいちいちそんなことを考えてなにを食べるか決めませんよね。でもだからこそ重要なのだともいえる。ぼくたちはそこにあるものを食べる。というよりも、そこにあるものしか食べられないわけです。つまり「なにを食べるか」というのは個人的な行為であると同時に、ものすごく制度的に縛られている。

 そもそもぼくたちは文化的、食習慣的に、朝昼晩一日三回食べることにしていて、「ああお昼だ。ごはん食べなきゃ」みたいな強迫観念に囚われていたりさえもするわけだけど、別にお腹が空いたら食べればいいわけで、このような強迫観念は軍隊的、あるいは囚人的、もしくは学校給食的、つまり合理主義としての管理された食習慣の産物で、ひとことでいえばこれは「近代的食事」とでも呼べるような、なんら本質的ではない、一種の流行としての食事スタイルなわけです。日本がいつから一日三食になったのかを調べればわかると思うんだけど、一般庶民のあいだにまで一日三食が定着したのは、大雑把にいって近代以降のことです。あるいは近代化と軌を一にしている。みんなで一斉にものを食べる、あるいはみんなで一斉に同じものを食べる、ということの中にある共通意識と効率化が、共同体の成員であることの証(同じ釜の飯を食う、というやつです)になっていることからもわかるように、これはものすごく制度的であり、と同時に政治的です。そしていつからか食事というものは、国内政治的であると同時に世界経済的な問題でもある。

 たとえば給食です。どうして学校給食では米ではなくパンを食べるのか? これは不思議なことだと思いませんか? 日本は米の国ですよね。なのにどうしてパンなのか。たぶん今現在の給食の献立はちょっと変わってきていて、昔よりもごはんを食べる機会が増えてると思います。でも学校給食は長いあいだ、基本的にはパン食がメインだった。実はこれにはちゃんとした理由がある。それは、日本の学校給食が、アメリカの小麦の在庫処理に利用されたという歴史があるからです。第二次大戦後、日本の食生活は急激に欧米化するのですが、これはなにも自然にそうなったわけではありません。アメリカ政府の主導による大々的な小麦料理キャンペーンが行われた結果なんです。これは過剰生産や大豊作によって倉庫代だけで日本円にして一日約2億円ほどにも上るようになっていた、それこそ大量のアメリカ産小麦を早急に処分する必要に駆られたアメリカ政府の戦略だったことが明らかになっています。そしてその矛先は、当時、全国的な規模という意味では開始されたばかりだった日本の学校給食にも向けられた。こどものころからその味に親しんでいれば、大人になってからもずっといいお客さんでいてくれるに違いない、というわけです。さらにパンを食べるんなら、ということで飲み物は牛乳になった。基本的に日本人には牛乳を消化する酵素が備わっていないのにもかかわらず、と怒りの声を上げる人たちが今でもいるようです。もちろん日本政府は一方的に小麦を押しつけられたわけではないでしょう。食糧難や当時の米価を考えれば、アメリカ産小麦の導入は賢明な判断だったともいえるからです。

 というわけで、給食ひとつとってみてもそこにはさまざまな思惑が渦巻いているわけですね。と、このように、食べることについていろいろ考えていたところなので、吉川くんがジモンさんにいわれた「人と同じものを食べてたら、人と同じ発想しか生まれない」っていうのはすごくおもしろいと思いました。いわば時代が下るにつれて、人類はどんどん同じものを食べるようになってきたわけです。いわゆるグローバリゼーションというやつで。その象徴的存在といっていいであろうマクドナルドは、なんと世界121カ国31000店舗もあるんだって。そのすべての店で同じ味のハンバーガーが食べられるのかと思うと、唖然としちゃいますね。この世界にはいったいどんだけ牛がいるんだろうな。そんなに牛がいるんならハンバーガーにしなくたっていいじゃないか。どうしてハンバーガーを売ることにそこまでこだわる必要があるんだ。ふつうに食べればいいじゃないか。そうだな。たとえば牛タン焼きとか。

 というわけでやっと牛タンの話になったよ。長かったなあ。あやうく忘れるとこでした。仙台はどうして牛タンなのか。いやいや仙台=牛タンではありませんが、どうして仙台の牛タンは有名なのか。仙台は牛タンで有名なのか。それは戦後、仙台に駐留していたアメリカ兵によって消費された牛の、余って捨てられていた部分を利用したのがはじまりだった……というのが定説でした。「またしてもアメリカが!畜生!」と行きたいところですが、まあ焦ってはいけません。定説だったんですが、どうやらこの「仙台牛タン米軍余りもの説」というのは俗説だったようです。じゃあ実際はどうだったのか。

 戦後、仙台で焼鳥屋を営んでいた佐野さんが、当時、手軽にはじめられるという理由でたくさん存在していた他の焼鳥屋とはひと味違ったメニューを模索していたところ「牛タンはどうよ?」ということになり、牛タンを焼いてみたらすごくおいしかった、ということのようです。なーんだ。アメリカ、関係ないじゃん。佐野さんは東京で料理の修業をしているときに、フランス人シェフに牛タンのおいしさを教わり、その知識を生かした、というのがどうやらことの真相のようです。

牛タン再び でもまあとにかく仙台の牛タンはおいしいです。ものすごく分厚いんですね。こないだ東京で牛タン定食を食べたんですが、仙台の牛タン定食の完成度には遠く及ばず、仙台のは本当においしかったんだなあと痛感したのでした。ちなみに別に国産の高級な牛を使っているというわけではないみたいよ。オーストラリア産かアメリカ産がほとんどのようです。 というわけで、プール嫌い、アメリカ小麦と給食、仙台牛タン話の巻でした。おしまい。

ドラゴン