ドラゴン→吉川 第六信(復)イアン・ソープに嫉妬して

 吉川くん、元気ですか? 
 返事が遅くなりすまん。と書いてみたかったからわざと返事を遅くしました。というわけでは断じてないのですが、返事が遅くなってしまい、大変申しわけありません。そして全国津々浦々のダーリンハニー吉川正洋ファンのみなさま。どうもすみません。だってぼくが返事を書かなければ吉川くんの書いたものが読めないですもんね。本当にごめんなさい。下げた頭がアルゼンチンの農夫に掘り当てられ、振り下ろされた鋤によって額が一文字に割れるくらい反省しております。血が噴き出しております。その血で、いまこうして手紙をしたためている次第です。かしこ。あれ。終わっちゃったよ。

 でもほんと月日の経つのはあっというまですよね。つい昨日まで、いきなりぶった切られた臍の緒のとこが痛い。とか、この「おしゃぶり」ってやつはすばらしい発明だがしゃぶりすぎると「おえっ」てなるよなあ。とか思っていたのに、いまでは立派な赤いちゃんちゃんこです。ってそこまで月日は経ってませんが、本当に早いね、この年になると。それもそのはず、年を経るにしたがって、「1年」という時間の長さが相対的に短くなっていくからなんですね。たとえば5歳児の「1年」は全人生の5分の1の長さですが、29歳であるぼくの「1年」は29分の1の長さにしか過ぎません。というのは、これ、時間についてよくいわれる説だと思うのですが、どうなんでしょう。ぼくとしては、なんかこう、「月日が経つのはあっというまだなあ」という感慨には、人生が充実していることに対する喜び。あるいは、軽く自分を褒めそやしてあげたい気持ち。が混ざっているような気がします。そしてそこから派生して、大して充実してはいないのにもかかわらず「月日が経つのはあっというまだなあ」となんとなく思うことで、「ってことは案外充実してたのかも」という錯覚を導き出す装置として時間は無理矢理、加速させられているのではなかろうか、とも思います。それとも、もしかしたら人生は長すぎてうんざりでもう疲れて嫌なので早く終わって欲しいから、そんなに長くないよ、もうちょっとで終わるよと自分自身を慰め、鼓舞する気持ちで、「月日が経つのはあっというまだなあ」と人は思ったりするのかもしれません。ゴールまできっともうあとちょっとだからがんばろう、みたいな感じで。

 とにかくそういったようなわけで、うっかりしているあいだにもう何ヶ月経ってしまったのか考えたくないくらい何ヶ月も経ってしまいました。誕生日おめでとう。メリークリスマス。よいお年を。あけましておめでとう。今年もよろしく。「G7」おつかれさま。鬼は外アンド福は内。「トークライブ」おつかれさま。ラジオレギュラー決定おめでとう。毎週聴いております。そして単独ライブ開催おめでとう。と一気に、ここで書かなければならなかったはずの祝福のことば、および時候の挨拶をこうして思いつくままに並べ立ててみると、もう何ヶ月たってしまったのか考えたくないくらい何ヶ月もたってしまったことをひしと痛感しないわけにはいきません。ひしひし。

 でもぼくはもう自分でもわかっているんです。いくらなんでもわかります。こんだけ毎日、自分といっしょに生きてれば。「ひしひし」というその重みがぼくのモチベーションなのです。なんだかぼうっと、うつつを抜かしているあいだに失われてしまった膨大な時間に愕然&うっとりとし、それをどうにか急いで取り戻そうとする。ということの中でしか何かを成し遂げることができないみたいなんです。ウサギとカメの話がありますよね。ぼくはウサギです。スタートと同時にまずは適当に走る。走る。走る。

 で、まあこんくらいでいいかな、という感じで休憩します。どんどんカメが近づいてきます。やがてカメに追いつかれ抜かれます。カメの後ろ姿がどんどん遠ざかっていきます。それでもまだぼくは走りはじめません。追いつかれるまでにずいぶん休めたし、まあまだ行かなくていいだろ。というような感じでもたもたします。その気になればいつでも抜かせるよ。へへん。と余裕ぶっこいているわけです。そこにはカメに対して慈悲の心を抱く俺。みたいな偽善の心、あるいは自己欺瞞さえも混じっているかもしれません。ちょっとかわいそうじゃん。カメもさ。カメのやつもさ。あれで意外とがんばってるんだからさ。たまには花を持たせてあげないとね、と。

 んで、まあ、じゃあそろそろ、なんつって、やがては重い腰を上げるわけですが、向こうはこっちが休んでるあいだにぐんぐん実力を上げ、ぼくの目の前を通過したときとは見違えるほどにまでスピードを上げている。二足歩行してます。すでに。カメなのに。そんな事実を実況中継のモニタで見てぼくは愕然。片やこっちはさんざん休んでたので身体が鈍っちまってもうちっとも早く走れない。ウサギ跳び並の遅さです。ウサギなのに。うわっ。やばっ。急がなきゃ。ってんで、大あわてで駆け出したはいいが、焦りまくっているので道を間違える。気がついてみたらスタート地点に戻っている。ぎゃあ!で、そんな自分を映したカメラの映像を見てさらにぎゃあ!おれ、カメ?…に…なって…る?え?…そもそも?スタート地点で?スタート地点から?一歩も?動いて…ない!?という驚愕の事実をカメラマンの証言によって知るのです。

 そう。ぼくはウサギなんかじゃなかったんだ。はじめから。カメだったんだ。もともと。自分はウサギだと思いこんでいただけなんだ。カメが目の前をいっしょうけんめいに横切っていったのは、なんだ、あれは夢だったのだ。駄目なカメ。ということばが脳裏を、それこそカメのような歩みでゆっくりとよぎります。スタート地点でこんこんと眠りこけるカメ。それがぼくだったのです。陽が落ちて、あたりはもうすっかり夜です。しずかな、とてもしずかな夜です。ひっそりと、森が呼吸する音までもが、きこえてくるようです……。

 さてそこで、駄目なカメはそれからいったいどうしたのでしょうか? いや、そんなことよりとりあえず往復書簡を書きなよ。というわけで、そんな夜にこうして手紙をしたためている次第です。かしこ。

 というわけでだいぶひさしぶりの往復書簡ですが、いかがお過ごしでしょうか? 今回は、ちょっと前の「ストレンジ日和」に書いてあった「ぼくの好きな先生」に関連した話を書こうかと思います。吉川くんは新しい先生を探している、ということでした。どうですか? 新しい先生は見つかりましたか? まあ見つかったにせよ、まだちょっと見つからないにせよですね、その気持ちはぼくにはすごくよくわかります。ぼくも吉川くんとまったく同じように、いつも何人かの先生に付いている、という感じでずっとこれまで生きて来たからです。ずっとこれまで生きて来られたのは、きっとそういった先生たちのおかげだと思います。正直いって。そしてこの数年は、ちょうど新しい「先生」が増える時期に当たっていました。そうするともう生まれ変わったみたいな気分になりますね。パソコンに新しいソフトをインストールしたみたいな気持ち。できることが増えるような、世界が広がるような感じ。

先生はえらい もちろん、ぼくはそのときどきで特定の人を勝手に先生と思っているだけなわけですが、実は先生というものは本質的にそういうものなのだ、ということを内田樹という人が『先生はえらい』という本に書いています。「あなたが『えらい』と思った人、それがあなたの先生である」と。だから師として仰ぐのには、直接会ったことがなくったってぜんぜん構わないわけです。もう死んじゃった人でも、ことばの通じない外国人でも、犬でも、猫でも、誰でも「先生」になる可能性があるわけです。

 これ、ぼくはほんとそうだなあと思って、目からなにかが落ちて、あれ、コンタクトかな。と一瞬思うほどでした。でもコンタクトが落ちたのなら視界はぼんやりするはずなのに、あれ?超よく見える。ってことはあれだ。落ちたのはコンタクトじゃないや。じゃあ、なあに?もしかして鱗?鱗だ鱗。目から鱗が落ちるってのはこのことかあ!と独り合点したのです。思わず膝を打って。というか実のところぼくはコンタクトなんてしたことありません。視力2.0ですからね。

 でもいってみれば人はみな、着けると世界がぼんやりするコンタクトレンズを着けて生活しているみたいなもので、たまに後ろから頭を「ガツン」とやられないと、そのぼんやりを通した世界が正常なのだと思いこんでしまうものです。なぜならその方が楽ちんだから。慣れてるというか。だからなるべく「ガツン」とやられるようにし、目から鱗が落ちる機会を設けた方がいいのだな。とぼくなんかは思ったりするわけです。「先生」を探す。というのはたぶんそういうことなんじゃないだろうか。つまりぼくは「先生」に「ガツン」とやられたいんですよね。ときどき。

 でもまあ一生のうちに、そう易々と何人も「先生」と呼べるような、呼びたいような人が見つかるわけじゃないですね、これ。探せばかならず見つかるというわけでもないし。でも探さなければ見つからないし。一般的な評価基準はほとんど参考にならない、というのも見つけるのが難しい原因のひとつじゃないでしょうか。人が、あの人はすごい偉い天才大先生といっていたって、そんなの知るもんか、と思うこともしばしばですものね。

 いろんなことが重なって、なんかこういい感じに、タイミングとかが合って、テンションもぐわっと盛り上がった暁に、ほんと恋に落ちるみたいにして、運命的に「先生」は出現する。そうそう。「先生というのは出会った後ではそれが運命だったとしか思えなくなる人のこと」である、という風にも『先生はえらい』には書かれてありました。

 実はこの3年でぼくは3人もの「先生」に出会ったんですね。っていうとなんだか軽々しく聞こえるけれど、これはもうほとんど僥倖に近いと思います。ひとりは前述の『先生はえらい』の著者である、仏文学者の内田樹先生。もうひとりはジャズプレイヤーの菊地成孔先生。そしていちばん新しい先生は3月13日の早朝に発見されました。それは町田康先生です。

 デビュー作の『くっすん大黒』は出たときすぐに読んで、とてもおもしろい。画期的。と思ったし、芥川賞をとった『きれぎれ』だって読んでいました。でも町田康の作品は、それだけしか読んでこなかった。これはいったいどういうことなんだろう。って別に、そんなことは不思議なことでもなんでもないですね。入学したてでいっしょのクラスだったときはすごく仲がよかったけれど、いざクラス替えをしてみたら廊下ですれ違っても挨拶さえしなくなった。なんてことは、まあよくあることです。そんな風に町田康という作家と、読者であるぼくは、いろんな場所ですれ違いながらも、挨拶をしない日々が長く続いたのでした。つまり彼の作品を読まない日々が。でもある日、突然、挨拶をしたい。という気持ちにぼくはなった。それは場合によっては、一度も読んだことがない作家の作品を初めて手に取ることよりも、そうすることが難しいことかもしれません。なぜならぼくたちは一度出会い、そして離れてしまった。そこにはもう、いったん、結果というものが出てしまった、といえるからです。

パンク侍、斬られて候 直接的なきっかけは『パンク侍、斬られて候』を読んだことでした。これが本当に、小説を読んでこんなに笑ったのは初めて、というくらいおもしろくて、それで町田康に対する印象ががらりと変わり、そんなときにちょうど新刊が書店に並んでいるのを発見したのでした。『告白』というタイトルの、これまででいちばんの大著です。1900円。ぼくはこの、俗にいう「弁当箱」みたいな分厚い本が大好きなのですが、でもぼくはその日、『告白』を買いませんでした。なにを焦る必要があるでしょうか。ぼくは家に帰ってまず『くっすん大黒』を読み、続けて『きれぎれ』を読みました。とりあえず本棚にはそれしかなかったから。『パンク侍』もあったけど、それは読んだばっかなので省きました。つまりすぐに読める限りの町田康の小説を読み直したのです。そして「うん」と思いました。なにかを確信したのです。人生において、これほどすばらしい瞬間がまたとあるでしょうか?たぶんあんまりないんじゃないかな。それから後日、あらためて『告白』を買いに行きました。そして一日に100ページずつ読もう、もったいないから。と決めたのに、その700ページ近い本をぼくは二日で読んでしまったのでした。

 というわけで、あとはもう雪崩のようにほとんど全部の町田康作品を読みました。新しくひとりの作家を好きになって、過去に書かれた作品をがしがしと読んでいくというこの喜びはなにものにも代え難いですね。

 吉川くんも早く新しい先生が見つかるといいね。もし見つかったら、そのときはぜひ教えて下さい。それじゃあね。

ドラゴン