「早稲田」という名称は江戸時代に一帯が生育の早い品種を植えた田んぼが多かったことからその地名がついた。その地にl882(明治15年)「東京専門学校」が創設され、のちに地名にちなみ「早稲田大学」と改名。今に至る。早稲田周辺には、忠臣蔵堀部安兵のあだ討ちの史跡や日本庭園が数多く残っている。また古くは蛍の名所で、サワガニも生息した。このほか神田川沿いは東京の桜の名所としても有名で、面影橋から江戸川橋にいたる川岸の桜並木は3月末から4月にかけて満開となり、見物客でにぎわう。新宿区早稲田。伝統と革新の街。


行ったことのない街に行ってみる―第2回目の街は早稲田です。
なぜ早稲田かと問われれば、あまり意味はなくて、昔から行きたいと
思っていたし、同行してくれたオートバイさんもはじめてだったので
「あ、こりゃちょうどいいや」と思って行くことにしました。
ぼくの中での早稲田のイメージというと、「文学のかほり漂う学生の街」と
いったところで、「勉学」や「学究」といったストイックな言葉が似合う、わりと
まじめな方々が集う場所なのではないか、そんな感じがしていました。
イメージね、イメージ。その反面、演劇や学祭や(中止になった年もあったけど)
古いところだと学生運動など、わりとリベラルな学生たちが多いイメージがあります。
「頭の切れる自由な発想の持ち主」、これが早稲田ボーイのイメージ。
一面的で単調なイメージ。おそらくそんな人たちばっかりじゃないだろうし、
「早稲田ボーイ」というのも何だかイケてない言い方だけれど、まぁとにかく
そんな感じなんじゃないかと思っていました。街としてはやはり歴史があるし、
優れた文人も多くいたし、何かこうアカデミックでそのくせ朽ちていて、少し
温かみのあるような、とてもいい街なんじゃないだろうか、そんなイメージを
持っていました。ただあんまりイメージイメージって言っていると月島のように
失敗するので、今回は「気張らず、焦らず、多くを求めずで」、行ってきましたよ、
知らない街へ。ということで始まります。東京フィールドワーク・イン・早稲田。
いい街だったよ。先に言っちゃうと。

                 ★

まず高田馬場から東西線に乗って1つ目の駅で降ります。早稲田駅です。
月島に続き地下鉄。外があまりに暑いので水分補給をと、売店でダカラを購入。
さっそく早稲田の本体、早稲田大学に向います。
道中、古本屋だとか定食屋だと雀荘だとかがあって、いかにも「学生街」といった
風情のお店があって「あぁ、これこれ」といきなりのイメージ・シンクロ。
キッチン南海もあったりして油臭い。でも街と似合っていてとてもいい。


暑いのでとりあえずダカラを買う。
早稲田駅。前回に続き絵が地味。
キッチン南海。顔がまだ出来ていない。



さて、わりとあっさりと早稲田大学が見えてきます。
いわゆる「早稲田」といえばやはり大隈記念講堂。偉大なる政治家にして、
早稲田大学の創始者。でも作ったときは「東京専門学校」という名前だった
らしいです。なんだか服部さんみたいですね。調理師や栄養士になるための学校みたいな。
まぁ違うよねのはわかっているよね。


いよいよ早稲田大学へ進入。
サークル旅行にまぎれる。
大隈講堂を背にwasedaマーク。



そしてキャンパスをうろつく。「いいなぁー、いいなぁー」とねたみながら。
だってまず大きいんだもの。広い!!んで建物も新旧織り交ざってとても
いい感じ。ぼくが行っていた大学なんて遠くて田舎でネコ臭くて…いや、
思い出を汚すのはやめよう。あそこもいい大学だった。よな、うん…。
また演劇などを披露する小屋も充実していて、さすがだと唸った。
優秀な役者や演出家が数多く出ているのもわかる。ペンションみたいな
建物があって、「あれはなんだ!?」と近寄ってみると演劇小屋だった。
その隣りには小説理論をはじめて書いた小説の祖・坪内逍遙さんの
銅像もある。でもちょっと場所が悪い。大隈さんはキャンパス入り口に
どかーんとそびえ立っているのに、坪内さんはペンションの管理人
みたいな感じで(ごめんなさい)、もっと人が通るところに置いてあれば
いいのになと思った。

                 ★

カップルがひざまくらをしている。これぞまさに「大学ライフ」!!
ええじゃないか、ええじゃないか。そうですよ、いいんですよ。だってさ、
天気もいいしさ、夏休みだしさ、おそらく付き合って間もないんだろうしさ、
いいんですよ。ぼくは扇子をあおぎながら、恋の横をささっと通過しました。
そして悪態をついてやりました。



カップルを背に、ろくでなしブルース。
小説の祖・坪内先生。
とりあえず反対。



大学というところはね、モラトリアムの巣窟です。だからものすごく
居心地がいい。ぬるい。ぼくなんかは非常に居心地がいい。
しかしながら反面、社会へ出るための予備段階としての機能も
あるからみなさんちゃんと勉強をしている。ぼくはそんな人々を
見ながら、うらやんだり、あがめたり、悪態をついたりしている。
「何なんだ俺という存在はいったい」―というギリシャ時代から変わらない
根源的な疑問が頭をよぎる。でもそんなこと知るか、という根源的な
楽天性で乗り切る。ビールが飲みたくなった。売ってなかった。
当たり前だ―い。ぼかーん。と頭がおかしくなったフリをして、
ぼくは早稲田大学を後にしました。全然頭なんかおかしくはないのです。
「都電の駅はどこですか?」―しっかりしたもんです。
ぼくはゴールを決めたJリーガーのように、手を真横に広げ、
「ゴーール!!」と言いながら大学を走り去ったのです。

                 ★

大学を走り去り、向った先は都電荒川線の早稲田駅。
都電に乗れば何か楽しいことがあるだろうとふらふら歩いていきます。
道すがら、ネコを発見。月島のときもそうでしたが、その街に
住みついているネコを眺めることは東京フィールドワークでの
楽しみのひとつ。早稲田のネコはやはり聡明そうで(本当に?)、
賢そうでしたよ。

都電の駅まで道を聞く。
道すがらネコを発見。
オートバイはいい写真を撮る。


三ノ輪橋行き。たしか170円くらいだった。
車内の親子。
うつろう景色がまたいいんだ、都電の野郎は。


都電は早稲田から三ノ輪橋まで走っているいわゆる「ちんちん電車」で、
王子や荒川をカバーしています。また駅名もおもしろくて、
「面影橋」(はっぴいえんどの世界)や「飛鳥山」(王朝時代の世界)、
「荒川遊園地前」(そんなとこあったんだの世界)、果ては「鬼子母神前」
(悪役商会の世界)なんていう駅もあって非常に楽しい。
また路面を走るところもあって、電車マニアにはたまりません。
ぼくはというと、早稲田から4つ目の「雑司が谷」というところで降りました。
なんだか墓が見えたから。理由はそれだけ。でもこの墓が、すごかったんです。

                 ★

雑司が谷には「雑司が谷霊園」という都内でもビッグ3に入るほどの
大きな霊園があります。都営で、著名人も数多く眠るとのこと。
僕らはそんなたぁ知らずにだだっ広い霊園を太陽の下歩きました。
サンシャイン60が見える。もう池袋だ。延々歩く。墓ばっかだ。
まぁよく人が死んだもんだね、とオートバイさんに言うと「ったりめぇだろう」
と江戸返し。また夕暮れが近くなってきて、墓とビル、そして青空の
コントラストが非常にストレンジ。あぁいいねぇいいねぇと歩いていると、
ぼくらの歩が止まる。夏目金之助?ん?聞いたことある名前だな。
なんだなんだと表に回ってその墓を見てみると、なんと漱石!!漱石の墓!!
あの文豪、千円札(変わっちゃうけど)、坊ちゃん・夏目漱石の墓!!
これはもうたまげた。なんということだと思った。ぼくは漱石の小説を
最近まで読んでいたので余計にたまげた。あららーこういうことってあるのね。
(そういえば「こころ」にも雑司ヶ谷霊園はたびたび出てきました)。

いま思うとあの日はいろんな偉人たちに出会える日だったらしい
(みんなお墓とか銅像とかだけど)。他にも竹久夢二の墓もあった。
あとで調べると永井荷風さんなんかもあそこで眠っているらしい。
ここはおすすめですよ。霊園をすすめるというのもなんだけど、
都会のオアシス。またはビルの谷間の癒し系。でも夜に行ったらけっこう
怖いだろうな。だってなにしろだだっ広いから。この季節は涼むのに
いいかもしれないけど。

雑司ヶ谷霊園。緑が多くて気持ちがいい(昼は)。
墓とビルと青空。何かの歌みたいだ。
夏目漱石のお墓。

竹久夢二のお墓。
東池袋付近で都電が交差。
いや、歩いたあとのビールはシャレにならない。


夕暮れ五時。歩いた歩いた。そろそろいったことのある街についちゃうな。
よし、ここらへんにしておこういうことで、近くにあった東池袋駅で有楽町線に乗り、
第二回東京フィールドワークは終了。
でもね、早稲田近辺は非常にいい街でした。なんだか落ち着いていてね。
天気もよかったし(いささか暑かったけれど)、人もあんまりいないし。
この街はぜひおすすめです。都心なんだけど田舎っぽい。
歴史が歴史のまま残っている。秋もまたいいでしょうね。
はまりすぎるくらい、いいと思います。

さてぼくらは池袋から三軒茶屋に帰り、ビールを飲みまくりました。
チェアマン(管理人Sを今度から勝手にこう呼ぶことにしました) と
友人ドラゴンを誘い真夏の大ビール大会。チェアマンは途中でつぶれ、
オートバイさんは家に帰って吐いたそうです。しかしよき思い出。
早稲田はまたいってみたいな。今度はぜひ女の子と…。


今は酔ってません。