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capter2:橋をわたって


たしがはじめて〈蜂蜜公園〉にやって来たときのこと。いかした眼鏡をかけた華奢な感じの管理人が、わたしをあたたかく出迎えてくれた。かれは、突然やって来た見ず知らずのわたしに、すぐに仕事と部屋を与えてくれた。
「ここでは、みんなに働いてもらうんです」と管理人はいった。「もちろん、中には働かない人だっています。でも原則的には、みんなに働いてもらうことになっています」
「わかりました。喜んで働きますよ」とわたしはいった。

たしはそのころ、何か運命のようなものに導かれて、この〈蜂蜜公園〉にたどり着いたのだった。だから「何でもやってやろう」という気持ちになっていた。運命のようなものに身を委ねておきながら、選り好みをするのなら、はじめからそんなことをしなければいい、とわたしは思っていた。
「ありがとう。助かります」と管理人はいった。「なにしろ、それがここでの規則なものですから。おや、あなたが持っているのは本ですね。もしかして本が読めるのですか?」
「ええ、少しだけですが」とわたしはいった。
「では、あなたには本を読んでもらうことにしましょう」
「それだけでいいんですか?」とわたしは少し驚いて訊いた。そんなことが仕事になるなんて思いつきもしなかったのだ。
「もちろんです」と管理人はいった。「いまでは本を読むのはとても難しいことになってしまいましたからね。そうと決まればあなたにとっておきの住まいがありますし。さっそく案内しましょう。あなたの住むことになる部屋ですよ。さあこっちです」

うしてわたしは管理人の後についていった。管理人はときどき後ろをふり返って、わたしがちゃんとついてきているかどうか確かめているようだった。ちょっとだけ心配だったのかもしれない。わたしがちゃんとついてきているかどうか、わたしがちゃんとここに住む気持ちがあるのかどうか。
わたしは管理人の後ろを歩きながら、〈蜂蜜公園〉を順々に見ていった。管理人の目指す場所は、どうやら公園の中の奥まった場所にあるらしかった。だから、わたしは〈蜂蜜公園〉にあるものをいろいろ見ることができたのだ。
〈蜂蜜公園〉は、わたしが想像していたよりも遙かに広い公園であるようだった。それは、ほとんど公園とは思えないくらいだった。どこまで行っても、行き止まりというものが見つけられないのだ。まるでわたしたちが移動するのに合わせて、〈蜂蜜公園〉そのものも移動しているみたいだった。そのうえ、特殊な掃除道具を使って丁寧に掃き清められたかのように、そのどこにも、塵ひとつ落ちていなかった。きっとわたしは子供みたいに目を丸くしていたことだろう。まるで、そこは、天使が地上に降りてきたときに休憩するための場所のようだった。
〈蜂蜜公園〉にはいくつかの池があり、湖があり、トンネルがあった。
それから、馬や牛や羊、豚や兎や栗鼠などのいきものたちが住んでいる一画もあった。
まばらだが、それでもいくつかの小屋があり、そのどれもが丁寧に扱われているのが見てとれた。そこに住んでいる人たちと、ぜひとも話がしてみたいと思わせるような清潔な住居だった。いささか清潔にすぎるくらいなのだ。でも清潔なのはとてもいいことだ。それは努力なしには維持できないものだから。

がてわたしたちは川が流れているところまでやってきた。
それはなかなか感じのいい川だった。実に感じがいい。澄んだ水は熱してさらさらになった硝子のようで、風がなければ、とても流れているようには見えないほどなのだ。音もなく、しずしずと川は流れていった。
わたしの目を引いたのは川底の色だった。その川の川底は金色で、大量の砂金をばら蒔いたみたいなのだ。わたしは本当に砂金だと思ってしまった。それが蜂蜜糖だということを、わたしは後で知ったのだ。
その川の幅は広いところで5歩くらいのものだった。深さは、いちばん深いところでも子どものひざくらいしかないだろう。それにもかかわらず、しっかりとした橋が架かっているのだった。まるで何かのしるしみたいに立派な石造りの橋が架かっているのだった。
川に見とれていたせいで、気がついたときには管理人はもう橋を渡り終えていた。こんなところに住めるなんて、わたしはなんて運がいいのだろうとわたしは思った。そして、管理人の後ろをわたしは歩いていった。

理人はある建物の前で立ち止まり、わたしを見た。それから、「さあ、ここです」といった。かれはなんとなく、ほんとうになんとなくだが、慎重になっているように見えた。どうしてだろうとわたしは思った。
しばらくのあいだ、わたしたちは二人でその建物を見つめていた。その建物がわたしたち二人にとって特別に思い出深い場所ででもあるかのように。わたしには、その建物だけが人々の記憶の淵からこぼれ落ちてしまっているみたいに思えた。そこだけは、あまりうまく手入れが行き届いていないようなのだ。青々とした雑草が深く生い茂り、長く伸びた蔦は壁面という壁面を執拗に絡め取り、その建物をまるごと土の中へ引きずりこもうとしていた。
明らかに、そこには誰も住んでいなかった。もう何年も住んでいないはずだ。わたしには、嫌というほどそのことがよくわかった。まるで死んでいる人間を見たときのような気分だった。

たしたちは建物の中に入った。
薄暗くて、少し黴くさい匂いのする古い部屋だ。たくさんの本棚があった。だがそれにくらべて、並べられている本はとても少ない。ちょっと哀しいくらいに、わずかの本しか見あたらないのだった。
「ここは図書館みたいに見える」とわたしはいった。
「その通り」と管理人はいった。「ここはかつて図書館でした。この公園ができる前から、この場所にあったものと聞きました。創立者は、図書館をそのまま残して〈蜂蜜公園〉を作ったのです」
「なるほど」
「でも今では使用されていないのです。あなたも知っている通り、本を借りて読もうと考える人間などいなくなってしまったから」
「ここにわたしが?」
「いやですか?」
「いやなわけがありませんよ。図書館に住むのがわたしの夢だったんですから。ブローティガンの『愛のゆくえ』を読んでから、ずっとそうでした。ほら、いま持っているのがちょうど『愛のゆくえ』です」
「それなら話は早い。今日からここはあなたの家ですよ。わたしは『愛のゆくえ』を読んだことはありませんが」
「でも」とわたしはいった。「わたしにはこんなに大きな建物の家賃を払う余裕がないんです」
「そんな心配はいりません。ここでは家賃などといったものは存在しないのですからね。ここは、この〈蜂蜜公園〉は、いわば仮想空間なのです。ここにあるものは全部、蜂蜜糖でできています。蜂蜜からつくる蜂蜜糖です。そういうものがあるのです。だからといって、ここが空想の産物だなんて思わないで下さい。〈蜂蜜公園〉はちゃんと現実に存在しています。ここに住んでいる人がいる限り、そして、ここを訪れる人々が存在する限り、〈蜂蜜公園〉は決してその存在を放棄しません。わたしが管理人である限りは、ですが。そうだ、わたしのことはエスと呼んで下さい。そして、わからないことは何でも聞いてください」

のようにして、わたしは〈蜂蜜公園〉でする仕事と部屋を手に入れたのだ。

のゆくえ』はリチャード・ブローティガンの書いた、もっとも長く、もっとも小説らしい小説であるといわれている。でもそんなことはどうでもいいことだ。語り手の男は図書館に住んでいる。そこは世界にたったひとつしか存在しない特別な図書館で、誰でもそこに自分の書いた本を置くことができるのだ。世界にたった一冊しか存在しない、そして、残念ながら誰にも読まれることのないであろうむすうの本たちを所蔵する不思議な図書館。男はそんな図書館の受付係をしている。男はそこで、書き終えたばかりの本を携えてやって来る人々を待っている。それらの本を図書館に登録するのがかれの仕事だからだ。本がいつ書き終えられて、いつ持ちこまれてもいいように、その男は365日、24時間いつでも、あなたの訪れを待っていてくれる。
『愛のゆくえ』を読むと、そんな図書館がどこかにあればいいのに、という気持ちにさせられてしまう。いや、そんな図書館がどこかに存在するのではないか、という気にだんだんなってくるのだ。実際のところ、ブローティガンのおかげで、わたしたちは、そのような図書館を思い浮かべることができるようになった。だとすれば、わたしたちの心の中に、その図書館はもう存在するということではないのか……。
そう、わたしたちは誰でも心の中にそのような図書館を持っていて、その図書館には誰にも読まれることのない本がぎっしりおさめられている。そこには、わたしたちひとりひとりの人生のすべてが書かれていて、ついに本人以外の誰にも読まれることなく、それはひっそりと焼かれてしまうのだ。だとすれば、わたしたちはその本を携えて、いつの日か、図書館から外に出ていかなければならないだろう。人は誰でも、自らの心の中にだけ住み続けることはできないのだから。


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