のふたがはずれて、天国の底が透けて見えそうなほどだった。夜のあいだに広がった冷たく暗い穴をふさぐように、光の布が薄くその上をおおって、閲覧室の床は回復の兆しを見せつつあった。わたしの足下で、とっくの昔に忘れてしまった古い記憶を思い出そうとしていた。ならされてゆく荒れ果てた土地みたいだった。

たしは閲覧室のソファに座って、「ベック」の『SEA CHANGE』を聴いていた。それは日曜日の早朝で、一日のうちでいちばん特別な光が窓から射しこんでいるところだった。人々を夢から目覚めさせる光だ。静かに、毛布のようにわたしのひざをあたためて、そこから滝のように床の上に広がり落ちていた。光のシャワーはしぶきをあげるかわりに、むすうのほこりを浮かび上がらせていた。どこにもいくあてのない人たちのようにゆっくりと、ほこりは宙を舞っていた。チンダル現象というのだったかな。空中にあるちりやほこりに光が乱反射して、通路のように見えるのだ。そこを上っていったら、いかにも正しい場所にたどり着けそうな光の通路。

がて、日曜日の朝にぴったりといった感じの曲が流れはじめた。みんなでそろって日曜日の朝を演出しているみたいな気分になってしまったほどだ。わたしはその曲名を確かめてみた。『SEA CHANGE』の10曲目。それは「Sunday Sun」という曲だった。なるほどな、とわたしは思った。まるでジョージ・ハリスンの新曲みたいなのだ。

うしてこんなにジョージ・ハリスンのことばっかり頭に思い浮かぶんだろう、とわたしは思った。日曜日だからかな。わたしにとって、ジョージ・ハリスンは日曜日なのだ。ジョン・レノンは雨の降る月曜日、ポール・マッカートニーは土曜日で、そのことを日曜日に歌う。リンゴ・スターは……夏休みだ、もちろん。

にかく、そのように素晴らしい日曜日の朝だった。だからわたしもその恩恵にあずかることにしたのだ。その聖域のような日だまりでは、なにもかもが完璧にいくような気がしたのだ。リチャード・ブローティガンの「なにもかもが完璧なような気がしたので」という詩みたいに。

 なにもかもが完璧なような気がしたので
 ぼくたちは車を止め
 そして外へ出た
 風が優しくきみの髪をなぶっていく
 こんなにも単純なことだったのだ
 ぼくは向き直り
 きみにいま話しはじめる

(『ロンメル進軍』所収、高橋源一郎訳、思潮社)

たしは、これから、わたしたちがここでしていることについて話そうと思う。わたしたちが毎日、ここでしていることや話したことやなんかについて。「ここ」というのは〈蜂蜜公園〉のこと。それで、どうしてそんな話をしなければいけないのか、とあなたはいうだろうか。あなたがそういう人だったときのために、ちょっとだけ書いておこう。どうしてそんな話をしなければいけないのかについて。そんなことは余計かな。でもちょっとだけ書いてみよう。

はいえ、そんな風にいわれたら、とたんにわたしは頭を抱えこんでしまうことになる。「どうしてそんなに鼻が長いのか?」と質問されたアフリカ象みたいに食欲がなくなって、飼育係を心配させることにだってなるかもしれない。飼育係は獣医を呼んでくる。獣医は痩せぎすの頭の禿げあがった中年の男で、昼食は毎日のようにレバニラ炒め定食だ。

の日もかれはレバニラ炒め定食を食べてきたところ。アフリカ象のわたしとしては、まずその口臭に参ってしまう。

ょっと深呼吸させてもらっていいかな?」とアフリカ象であるわたしはいう。
「いいとも。もちろん」と獣医はいうのだが、そういったそばから、またもやレバニラ炒めなのだ。
アフリカ象であるわたしとしては、レバニラ臭に侵されていない新鮮な空気を吸いたいところだ。わたしは新鮮な空気がある高さまで、せいいっぱい鼻を伸ばさなくてはいけない……。

れじゃあ、「どうしてそんなに話が長いのか?」という質問に変えられてしまうかもしれないな。だからそういった質問は、できればぐっと飲みこんでほしい。

なんだ、最初からそういえばよかった。

実は、白状すると、これまでの人生において、そういったような質問にわたしはうまく答えられた試しがなかった。いや、どんな質問にだってちゃんと答えたことなどなかったのだった。アフリカ象としてのわたしの答える答えというものは、たとえばこんなものだった。

の鼻が長いことの理由は、『象個人の問題を越えたところにある』んじゃないかな、きっと」
「象の鼻が長いのは、『象にくらべて、象以外の動物の鼻が短いから』じゃないだろうか。つまり相対的な問題だ」──そういう答えには、はっきりいって、わたしはもううんざりだ。
いつからだろう、模範的な回答というのはそういうものだとわたしは思うようになってしまったのだ。でも、もううんざりだ。もっと違う答えを考えなくちゃならない。

とえば、どうしてなのかわからないままで、わたしたちは一日いちにちを過ごしてゆく。
きっと、あなただってそうだろう。そんなことはないかな?

でも、とりあえず、それがどうしてなのかわたしたちにわからなくたって、わたしたちは無闇に生活を止めるわけにはいかない。

わからないなりに、わたしたちは生活を続けてゆく。それが一歩ずつわたしたちを前へと進めてゆく。もっと後になってからわかるのだ、それがどういうことだったのか。どうして、そんなことをしたのか。どうして、象の鼻は長いのか。

だからそれまでのあいだ、わたしたちにできるのは、「問い」をそのままの形で、それとも、別の形で、保存しておくことなのではないだろうか。あらゆる問いかけは、また別の問いかけとして応答されて、わたしたちはもしかしたら、そういう環の中で生活しているのかもしれないのだ。

から、わたしたちが本当にわかるのは、自分の足跡のことだけだ、といってもいい。
わたしたちに道のことはわからないのかもしれない。ただし、足跡のことだって非常に危うい。わたしたちにわかるのは、それが自分の靴の足跡である、ということくらいのものなのかもしれない。

わたしのする話だって、それと似たようなものだ。

だから、一行ずつ、一行ずつ、わたしは書いてゆくだろう。
のろのろと、行き先も考えずに、わたしは書くだろう。

う、わたしたちはそれはもうしょっちゅう、何かについて話したり、何かをしていたりする。そういう、それらの「何か」というものは、あまり形に残ることがないものだ。

ほとんど形に残らない、といってもいいくらいだ。実際のところ。

市民によって叩き壊された銅像みたいに粉々になって、それでお終いだ。瓦礫の山から、かつての英雄の姿を思い起こすことはとても難しい。

一瞬だけ、それはわたしたちの目の前にあらわれて、一瞬のうちに、そこからいなくなってしまう。穴の中からちょっとだけ顔を覗かせて、すぐにあたたかい巣の中へ引っこんでしまう臆病な小動物みたいに。

かれらと似たようなものだ、わたしたちのしている「何か」だって。

わたしは、もうちょっとそれをなんとかしたいと思ってきた。

幸いなことに、わたしたちにはことばというものがある。ことばというものは、わたしたちの住む家のようなものなんじゃないかな。もちろん、いまでは、わたしたちに使えることばというものは、とても少なくなってしまった。

きっと、ここまでを読んでもらえたなら、あなたにはおわかりいただけることと思う。
かつて、ことばは、もっといっぱい、いっぱいあったのだといわれている。

そのころのことをわたしは覚えていない。

わたしがまだ生まれてもいないころのことだからだ。

きおり、わたしは本の中に見たこともないことばを見つけることがある。いったいどういう意味なのか、さっぱりわからないことばたちだ。それらは、新しく発見された昆虫のように不気味で、恐ろしい。それがいったいどんな性格のものなのか、見当もつかないからだ。中には、そういったことばがむすうに見つかる本もある。一冊の本の中に、わからないことばがたくさんあったりするのだ。そういうのは、大昔に書かれた本である場合が多い。

たしたちは少しずつことばを失ってきてしまった。

重たい荷物をちょっとずつちょっとずつ下ろしながら、わたしたちはずっとここまで歩いてきた。きっと遠くまで行くのには、そうするしか方法がなかったんじゃないかとわたしは思う。
わたしたちは、確かに身軽になった。でもそれは本当にわたしたち自身が望んでいたことだったのだろうか。わたしにはわからない。わたしたちは靴の踵をすり減らすようにして、何か、とても大事なものを損なってきてしまったのではないだろうか、という気がしないでもない。

ただそれでも、わたしたちが使えることばが少なくなってしまったのだとしても、わたしたちは生き残ったことばを使うしかないのだし、少なくともまだわたしたちには使えることばが残されているのだ。蜂蜜糖語ということばが。なら、それを使って書けばいい。

それを使って、わたしは書く。

れから〈蜂蜜公園〉がいったいどんな場所なのかについても話そう。

もちろん、あなたには選ぶ権利がある。わたしの話を聞かずにいられる権利が。
ブラウザを閉じて、あなたはいつでも、あなただけの日常に戻る自由がある。

それはそれでかまわないとわたしは思う。

聞きたくもない話ほど人をうんざりさせるものはないということを、わたしだっていくらか心得ているつもりだし、聞きたくもない話ほど耳に入らないものだということを、少しはわたしも知っているつもりだから。

も、もし、〈蜂蜜公園〉にちょっとでも興味があったり、暇で暇で、考えられないくらい暇で、超、超、超、暇で、ワイドショーを見るくらいしかすることがなかったり、ワイドショーのはしごをすることくらいしかあなたに予定(そういうのは予定とはいわないかな)がないのなら、そのときは、この先も、わたしのする話に耳を(目を?)傾け続けてみてほしいとわたしは思う。

このいまも、わたしたちは〈蜂蜜公園〉にいて、何か、それぞれのことをしている最中だろう。少なくとも、わたしは、いま、〈蜂蜜公園〉にあるわたしの部屋にいて、この文章を書いている。きっと、ほかの連中も、それぞれ何かやっている最中に違いない。

そういうことを知るのは、悪いことじゃない。

どこかで、いま、誰かが何かをしているのだということを知るのは、それほど悪いことじゃないとわたしは思う。そういうことは、わたしたちが生きていくうえで、できれば、知っておいた方がいいことのうちのひとつじゃないだろうか。

たったいま、どこかで、誰かが、なにかをしているということを知るのは。

でも、どこか別の場所で、誰かがなにかをしているということを知るのには、ちょっとしたきっかけが必要だ。わたしたちに見える範囲は限られているのだから。

わたしの書くものが、そういうことを知るきっかけになってくれれば、とわたしは思う。
〈蜂蜜公園〉は、そういうための場所だとわたしは思うからだ。

も、あなたが住んでいるところからでは、〈蜂蜜公園〉はちょっと遠いところかもしれない。それとも、あわただしく過ぎていく毎日のせいで、〈蜂蜜公園〉を気軽に訪れるなんて時間があなたには見つけられないという問題だってあるだろう。

だから、ほんの少しだけでも、あなたが〈蜂蜜公園〉を訪れたみたいな気分になれるように、わたしは努力して話してみるつもりだ。あなたが〈蜂蜜公園〉で、わたしたちといっしょに何時間か過ごしたみたいな気分になれるように。それとも、あなたとわたしたちが、ずっと昔から、〈蜂蜜公園〉でいっしょに暮らしてきたみたいな気分になれるように。あるいは、あなたやわたしたちが、いつだったか〈蜂蜜公園〉にいたのだ、確かにそこにいたのだ、ということを、いつでも思い出すことができるように。──そういったことのすべてを、わたしは、わたしたちに残された唯一のことばである、蜂蜜糖語を使って話す。ここにあるのは、蜂蜜糖だけなのだから。

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