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chapter5:ロシアから遠く離れて

れからわたしはもうずっと朝まで起きていた。静かな夜の中で、ただひとり目覚まし時計のようにひっそり目を光らせていた。ときどきアルカリが目を覚まし、ぼんやりとした目で不思議そうにわたしの顔を眺めた。超かわいい。わざと音を立てて、眠りを妨害したくなってしまうほどだった。だからわたしはアルカリが目を覚ましてしまうかしまわないかくらいの小さな音をわざと立ててみたりした。机の上をこつこつとたたく。舌を鳴らす。咳払いをしてみる。小さな音にアルカリの耳は小さくぴくりと動き、もっと大きな音には目を覚ましてこちらを見るのだった。そんなとき、わたしは、ちょっとした感動のようなものさえ覚えるのだった。自分で起こしてしまったにもかかわらず、一度起こしてしまった後では、呼吸を止めて、アルカリがふたたび眠りにつくのを神妙な面持ちでわたしは見守った。なんだか意地悪をしているみたいだけれど。

っているアルカリを見るのもまったく飽きなかった。アルカリはほとんど動かなかったといってもいいくらいだったけれど、わたしの目は何か動くものを見たがっていて、わずかな動きの中にもたくさんの動きを発見してしまうのだった。あまり動かないものがちょっとでも動くというのは、それだけでも大きな喜びだった。

たしは何度も眠ろうとした。でもベッドのある部屋に行くたびに閲覧室に戻ってきてしまうのだ。そっと、なるべく音を立てないようにして、薄い、氷の上を歩くようにして部屋を後にする。後ろ髪を引かれるような気持ちで。可能性だ、とわたしは思う。何かを見ることができる可能性を、みすみす見逃すことはなかなか難しいことなのだ。

うやらわたしはアルカリを見たくて見たくて仕方がないらしかった。だからわたしは閲覧室で眠ることにして、アルカリとは反対側のソファに横になったりした。でもぜんぜん駄目だった。部屋にアルカリがいて、そのことを知っているわたしには、部屋にアルカリがいるとしか思えないのだった。部屋にアルカリがいないというふりをすることはできないのだ、とつくづくわたしは思った。アルカリがいるせいで、閲覧室がいつもとはまったく違うように感じられるのだ。

たしは眠ることをあきらめて、ずっと読んでいたロシアの小説の続きを読み進めることに決めた。もちろん、いつでもアルカリの姿を見ることができる位置で。もちろん、わたしはもう1ページだって読み続けられはしなかった。存在というのはかくも圧倒的なものなのだ、とわたしは思わずにはいられなかった。部屋にアルカリがいることで、わたしの意識はロシアから遠く離れてしまった。もちろん、そのロシアの小説が悪いのではない、とわたしはひとこと申し添えておくべきだろう。とにかくアルカリはわたしの視線を引きつけずにはいなかった。その小さな身体はひたすら眠りだけを求めているようだった。寒かったからな、とわたしは思った。外では寒くて眠れなかったに違いない。そしていったん眠ってしまったなら、もう二度と目を覚ますことができないかもしれないのだ。そういう場所が窓の外のすぐそばに存在することを思うと、部屋の中というものが生きるためにぜひとも必要な場所であることがくっきりするような気がした。わたしの頭の中には、わたしたちの知恵、ということばが思い浮かんだ。家とは、わたしたちの知恵の結晶なのだ。わたしの頭の中にある、わたしたちの知恵の中のソファの上で眠っているアルカリは、脱ぎ捨てられた衣服のように柔らかそうだった。

がて夜が明けるころ、牛乳配達のナギがやって来た。ナギは黒い毛糸の帽子をかぶって自転車をこいでいた。ちょうど橋を渡って来るところが窓から見えた。雪はもう降っていない。でも何センチかは積もっているだろう。まっ白な、ほんとうにまっ白な中を、一台の自転車がゆっくりと近づいてくるのだった。

つもならわたしはまだ眠っている時間だった。ベッドの中で、まず遠いブレーキの軋む音が聞こえてくる。それに続けて牛乳瓶が置かれるときのごとごという音がする。図書館の本の返却口を改造した巨大な郵便受けにナギは2本の牛乳を入れてすばやく去っていく。わたしは夢と現実のあいだに横たわって、その音を聞くともなく聞くのが好きなのだ。それは朝を告げる音。朝いちばんはじめにわたしが耳にする音。

もそのときのわたしは起きていて、ナギにアルカリのことを教えたかった。だからわたしは玄関口でナギを待っていた。
「あれ、なんだ、もう起きたの?」とナギはいった。
「いや、まだ寝てないんだ」とわたしはいった。
「ずっと起きてたの?」
「うん。猫を拾ったんだ」

たしはナギにソファで眠っているアルカリを見せた。ナギは遠くからアルカリを見ていた。眠っているところにあまり近づいちゃ悪いと思ったのかもしれない。
「かわいいなあ。どこにいたの?」とかれは小さな声でいった。
倉庫の裏にいたんだとわたしは説明した。冷たくなっててね。するとナギは「ちょっと待ってて」といって、外へ出て行った。やがて返却口を改造した巨大な郵便受けがごとごと音を立てた。何をしてるんだろう、とわたしは思った。そのあと、かれは牛乳瓶を1本だけ持ってすぐに閲覧室に戻ってきた。
「名前何ていうの?」
「アルカリだよ」
「じゃあこれはアルカリのぶん。あんたのぶんはいつものように郵便受けに入れといたからね」
そういってかれは牛乳瓶をわたしに寄越した。
「これはあんたが飲んじゃだめなんだよ。こっちはアルカリのぶんだからね。アルカリは郵便受けから牛乳を取り出せないだろ。それから、飲ますときはちょっと温めた方がいいよ。お腹を壊すといけないからね」とかれはいった。
「ありがとう」とわたしはいった。本当は猫にはあまり牛乳を飲ますべきでないことをわたしは知っていたけれど、そのことは黙っておくことにしよう。誰かが誰かになにかをあげることは、だいたいにおいてすばらしいことだから。「じゃあぼくは自分のぶんの牛乳を取りに行くとしよう」とわたしはいった。

たしたちはふたりで外へ出た。「寒いねえ」とナギは手に息を吹きかけながらいった。「早く春にならないもんかねえ」
「まだ冬になったばっかりだよ」とわたしはいった。「どうして手袋しないの?」
「しようもなにも持ってないからねえ」とかれはいった。
わたしはナギにちょっと待ってて、といって、倉庫に手袋を取りに行った。どうしてだかわからないけれど倉庫には手袋がたくさんあって、わたしはそのことを思い出したのだ。わたしは念のために倉庫の裏側をもう一度確認してみた。アルカリがどこからやってきたのかわからない以上、アルカリと似たような運命をたどる動物がいたってぜんぜん不思議なことではないのだ。でもそこにはもうなにもいないようだった。アルカリがまだアルカリではなかったころにつけたくぼみが雪の上に徴のように残されているだけだった。

れ使うといいよ、といって、わたしはナギに手袋を渡した。
「いいの?」
「うん。牛乳のお礼だよ。それに手袋ならいっぱいあるんだ。まるで千手観音がここで一冬を過ごしたみたいにね。本当はどうしてかわかんないんだけど」
「悪いね。じゃあ使わせてもらうよ」
ナギはそういって手袋をはめて自転車に乗ってさっさと行ってしまった。まだまだ配達があるのだ。自転車は雪のせいでふらふらしてのろかった。牛乳瓶がかちゃかちゃ音を立てていた。瓶の中にあるはずの牛乳は、雪景色にまぎれてまるで空っぽみたいに見えた。まだ一面まっ白な雪の上には往復ぶんの車輪の跡が、じゃれあいながら歩くふたりの子どものように延びていた。

たしはしばらくのあいだひとりで雪を見ていた。雪は白かった。白くて、まぶしかった。雪は頭で思っているよりも、いつも20パーセントくらい白い気がするな。雪を見るたびに、こんなに白かったかなと思うのだ。わたしは雪に触れてみた。とてもつめたい。それはとてもつめたくふわふわと向こうの方まで広がり、洗い立てのシーツを敷いたベッドのような沈黙に守られていた。




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