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マーヤのノックを受けて、ドアはわたしの耳元の壁を叩いた。ちょうどドアに面した壁の、その裏側の、ひとりがけのソファでわたしは眠っていたのだった。いつもわたしはこの部屋では反対側にあるもうひとつのソファで眠ることが多いのだけれど、そのときはそんなへんてこな場所で眠りこけてしまったのだった。カーテンを洗濯したばかりだったから、なにも遮るもののない窓の真下のソファでは朝日がまぶしいかな、とおもったのかもしれない。だからその日、わたしはきっと夜更かしをしていたはずだ。朝日で目を覚ましたいとはおもわなかったのだ。

ノックはちょっとした悪意を含んでいるかのように増幅してきこえた。そうじゃなければわたしは目を覚まさなかったおそれがある。わたしの後頭部は、新鮮かどうかを検分される西瓜みたいだった(とおもう)。ほとんどじかに叩かれているみたいだった(とおもう)。そのことでわたしはドアのことを非難するつもりはない。ただドアはきっちりと唯一の役目を果たしたのだ。部屋(夢)の外にひとがいることを、部屋(夢)の中にいるひとに告げるという役目。かろうじてドアとしてのアイデンティティが保たれたというわけだ。

そんなわけで、ひさしぶりに閲覧室のドアがノックされたとき、わたしは砂漠にいたのだった。たぶん眠るまえに読んでいた本のせいだとおもう。

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砂漠では虎たちの魂がゆっくりと大地に染みこんでゆく──そう本に書いてあった。おそらく、何年も、何万年も、何億年もかけて。わたしたちの知らない時間軸にそって。ゆっくりと虎たちの魂は、砂の粒のあいだを下降しながら、だんだんと凝り固まってゆく。それはやがて琥珀と呼ばれるものとなる。中国の古い言いつたえ通りに──そう本に書いてあった。

わたしは耳栓をしていた。話を整理しよう。わたしは閲覧室のソファで眠っているあいだに見た夢の中の【閲覧室にある砂漠】で、耳栓をして眠っていた。ふだんわたしは耳栓をして眠ったりはしない。そんなものをつけなくったってここはじゅうぶんに静かだからだ。閉館後の図書館を思い浮かべてみてほしい。ちょうど、いや、まったくそんな感じだから。でも夢の中のわたしは耳栓をして眠っていた。きっと砂が入らないようにするためなのだとおもう。

だんだん眠りが深くなっていくにつれて、わたしの身体は横たわるツタンカーメンのようにその重みで自然と砂の中に沈みこんでいった。幾層もの砂の断層を通り抜け、眠りながらもわたしにはいろいろなことがわかった。砂漠はおもったよりもざらざらじゃなかった。ひんやりしたゼリーのようだった。

わたしの身体はどこまでも深く沈みこんでいった。主の留守中に、蟻地獄の巣にはまりこんでしまった、運がいいのか悪いのかわからない蟻みたいに。

だが突然どこかで砂の層も終わり、空間が開けて、それまでとはまったく違った速度で叩きつけられるようにわたしは重力方向へ落下した。わたしの胸元には飛行石は存在しなかった。だから、ちょうどナウシカとアスベルが腐海の底にどさりと落っこちたような感じで着地した。わたしはぎゅっと目を閉じて、やって来るはずの衝撃に耐えようとした。どさり。でも落ちた先は固い地面ではなかった。そこは巨大なベッドの上だった。わたしはふわりとベッドに横たわることになった。スローモーションのように、わたしの身体はわずかにバウンドした。そこがどうやらとりあえずの行き止まりらしかった。マシュマロのように柔らかなベッドだった。あるいはそれはベッドのように巨大なマシュマロだったかもしれない。

そして、ひとしきり無音のときが流れる。

わたしは生まれる前のように深く眠っていた。あるいは死んだあとのように。惚れ惚れするような確固とした眠りだった。鉛のような眠り。名前のない眠り。まん中でぽっきりと折ることだって可能なようにおもわれた。なんとなくわたしは、じぶんが、箱からいちばん飛び出すような長くて立派な一本のフライドポテトになったみたいな気分だった。

名前のない眠りの中はまっ暗だった。きりっとした暗闇ではなくて、もやっとした暗闇。それは体育館のようにがらんどうだった。わたしは眠りながら手探りでその中を歩き回った。これがわたしが眠っている眠りの中なのだ、とおもいながら。ふり返るとマシュマロのようなベッドは、スポットライトみたいな光のなかにうっすらと現代美術の作品のように浮かび上がっていた。それは遠い昔から届いたような、古ぼけた淡い光だった。

やがてたくさんの虎が死んだ。その最期の声がわたしの耳にも届いた。長く、そして哀しいかれらの唸り声が時間をかけてわたしの耳栓を溶かした。砂漠の底でやがてわたしは琥珀まみれになった。わたしが通り抜けてきたせいで筋道のようなものが生じてしまい、虎たちの魂はずいぶん速く大地を下降し、わたしの真上、砂の天井から雨漏りのように落ちてきた。ねっとりとした水飴のような、まだ柔らかな琥珀だった。

わたしは琥珀に包まれた。小さいころに図鑑で見かけた琥珀の中の昆虫の化石みたいにあっという間に動けなくなった。わたしはガラスケースの中に飾られることになった。ガラスケースの中に飾られることが決定した「化石になったわたし」を運んでいるのはわたしだった。わたしは白い清潔な手袋をはめた手で、他人のような顔つきをして、「化石になったわたし」をそっとガラスケースの底に置いた。「化石になったわたし」からは、ことり、と乾いた音がした。どうやら虎たちの魂は完全に琥珀になったようだった。

虎たち、とわたしはおもう。虎たち。

わたしは砂漠の底を見上げて、そのずっとずっと上にいるはずの虎たちの姿をおもい浮かべてみる。漫画の吹き出しにそっくりなものの中に、まだわずかに体温を残した虎たちの死体の山がうっすらと浮かんでくる。折り重なった虎たちはまるでお互いの身体をいたわるような感じに横たわっている。とても静かだ。すべてを話し終え、お互いにもうなにひとつ言うことはなく、どうしても手に入れたいと望んでいた沈黙をついに手に入れたのだとでもいうように、虎たちはみんな安堵の表情を浮かべていた。

琥珀の中でわたしは血の匂いを嗅ぐ。わたしのガラスケースは、わたしの視界は、わたしの夢は、気がついたときには赤く染まっている。それは琥珀に含まれた血のせいだ。速すぎたのだ、とわたしはおもう。彼らの魂はもっと時間をかけて砂の層を下降するべきだったのだ。砂漠の砂によって濾過されるはずの血液が、わずかに残ってしまったのだ。

誰かが博物館に侵入しガラスケースを割って回る。そいつは血の匂いを嗅ぎつけてやって来たのだ。遠くの方から次々とガラスの割れる音が鳴り響く。鼓膜を貫くような甲高い音に合わせて、わたしの頭の中いっぱいに広がっていた眠りの雲がふわふわと羊のように揺れる。平衡を欠いたてんびんのように規則的にゆらゆらと揺れる。風に吹かれた紋白蝶のようにひらひらと揺れるわたしの眠りの雲が二日前の綿菓子のようにもうちりぢりになって、わたしの隣の隣のガラスケースが割られる。ほとんど間を置かずにわたしの隣のガラスケースが割られる。それからわたしのガラスケースが割られる。

「化石になったわたし」は反射的に寝返りを打つ。ことり、と乾いた音がする。粉々になった破片が背中に降ってくるのをわたしは待つ。だがそれはやって来ない。音が消える。正確にいえば、夢の世界の音が消える。そしてその代わりに耳の中に現実の音が侵入しはじめる。「こん、こん、こん」。一拍おいて、再び、「こん、こん、こん」。

誰かが閲覧室のドアを叩いていた。

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持参したバスケットをマーヤが机の上に置くと、それが部屋の中でピクニックがはじまる合図だった。

ホットケーキはまだ焼きたてで、見るからにあったかそうだった。まだ焼きたてのホットケーキとは人類が長い時間をかけて勝ち得てきた喜びや幸せの、ひとつの結晶である。まちがいなく。焼きたてのホットケーキからは湯気が惜しみなくゆらゆらと立ち上り、ちょっともったいないくらいだった。もしわたしが眼鏡をかけていたとしたら、視界を遮る幸せの靄の中で迷子になっていたはずだ。

部屋はあっというまに蜂蜜の匂いでいっぱいになった。いや、もうその前から蜂蜜の匂いでいっぱいだった。それが小瓶の中の蜂蜜からの匂いなのか、それともかの女の身体に宿命的に染みついた蜂蜜の匂いなのか、わたしには判断できなかった。とにかく、その朝、わたしの部屋はどこもかしこも蜂蜜の匂いでいっぱいだったのだ。

わたしは何もする必要がなかった。ただコーヒーカップを戸棚から取り出してきただけだった。現時点で発見されているすべての元素記号が書かれたマグカップだ。かの女は小さな魔法瓶にコーヒーまでいれてきてくれていて、なんとも至れり尽くせりだった。そこでわたしは、なるほどな、とおもうことになった。いくらなんでもこんなに朝早くから、わたしのためだけにかの女が、このように何から何までしてくれるはずはなかった。わたしたちは確かに仲がよかった。けれど、ここまでする義理はなにもないはずなのだ。

ホットケーキだけならまだわかる。でもそこにコーヒーまで付いてきたのだ。これはどうしたって明らかに親切の領域を超えている。いくらかの女だってそれほど暇じゃないはずだし、わたしだって特別かの女に何かをしてあげたというわけでもないのだ。まったくおもい当たるふしはない。

それに加えて、かの女はえらく眠たそうだった。おそらく一睡もしていないのだろう。これはなにか相談があるに違いないなとわたしはおもった。いったいどんなことだろう。わたしは近い将来になにかが確実に待ち受けているときの気持ちになって、いつもよりも細かく世界に耳をかたむけるよう努めた。

もちろん、いやな感じなんてしない。あなたも、かの女のホットケーキを一度でも味わったなら、それくらい造作もないことだと思うはずだ。相談のひとつやふたつ、いくらでも聞いてあげたいと思うはずだ。かの女が焼くのはそのようにすばらしいホットケーキなのだし、そのようにすばらしいコーヒーなのだから。

「ねえ、起きてすぐなのに平気かしら」とかの女はいった。
「ものすごくおなかが空いていたんだ。眠るまえによほどなにかを食べようかとおもったくらいだからね」とわたしはいった。

それは本当のことだった。ゆうべからわたしの胃の中はもう何百年も昔に滅びてしまった文明のように閑散としていた。腹を空かせた野良犬が、そこら中に鼻先をつっこんで、なにかまだ食べられるものはないかとひっきりなしに探し回っていた。風が吹いて、なにかがからからと音を立てて転がっていった。見るからにわびしい光景だった。それがわたしの胃の中の風景なのだった。

「でも食べなかったのね?」とマーヤはいった。
「うん。この部屋には食べ物が存在しないからね。冷蔵庫さえ存在しない」とわたしは答えた。

マーヤのホットケーキがいったいどんなホットケーキなのか、ちょっと説明してみよう。といっても、特にどこかが変わっているとか、そういうわけじゃない。ただ、あなたがおもっている以上に、あなたのおもっているホットケーキにそっくりなのだ。あなたが「ホットケーキ」と聞いておもい浮かべるホットケーキ、それがマーヤの作るホットケーキなのだ。はじめてマーヤのホットケーキを食べたとき、わたしは心の底からびっくりすることになった。こんなに完璧なホットケーキがこの世に存在するだなんて、想像すらしたことがなかったからだ。

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「さてと、そろそろきみの話を聞かなくちゃ」とわたしはいった。わたしたちはおいしいホットケーキを食べ終え、コーヒーのおかわりを飲みはじめたところだった。かの女はなんとなくもじもじしていて、いつ相談事を切り出していいのか迷っているように見えた。どうやらマーヤはあまり人にものを頼むのがうまくないらしかった。ときどき、そういう人たちがいる。いくらでも頼みごとを聞きいれるくせに、自分ではめったに頼みごとというものをしないのだ。

「どうしてわかったの?」とかの女は驚いていった。
「わからない。そんな気がしたんだ」とわたしはいった。
「あなたのいうとおりよ」といって、かの女は一瞬だけ窓の向こう側に視線を向けた。
「相談があるわ」

そうしてかの女はやっと話しはじめた。




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