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chapter6:世界のドア


このところ閲覧室のドアはどうひいき目に見たって意欲的に活動しているとはいいがたかった。ただそこにいるだけだった。うす暗い部屋の壁にいつでもくっついたままで、いまにも壁に同化してしまいそうだった。

それもしかたのないことだったのかもしれない。

図書館に本を読みにやって来るようなひとびとが、いまではもう、ほとんどいなくなってしまったから。


かつて、ドアはこの場所になくてはならない存在だった。「読書」という儀式を滞りなく遂行するためには、わたしたちはまず閲覧室のドアを開ける必要があった。これから本を読むんだ。そうおもうことさえできたなら、しめたもの。読書なんて9割がた終わったようなものだ。閲覧室のドアをあけることさえできれば、わたしたちの読書はもうクライマックスもいいところなのだった。

そう、それは、あらゆる本すべての表紙のようなものだった。わたしたちがめくる最初のページ。それが閲覧室のドアだったのである。


わたしは閲覧室のドアの前に立ってみる。


このわたしでさえ、そこにドアがあることを識別するのがむずかしくなっていた。実際のところ、そいつはもうほとんど壁であるといったっていいくらいだった。なぜならそのドアはもう閉じたり開いたりすることがなかったからだ。

ただそれは本人がなまけているとか、この世をはかなんで自暴自棄になっているとか、あこがれの女の子ドアに恋をしてうわの空、もう一切合切なにもかもが手につかないだとか、とにかくそういったようなことでは断じてなかった。もちろんそうだ。いわばドアとは、その全生涯を通じて世界に対し受動的な態度をとりつづける存在なのだ。ドアはなにかを積極的に望んだりしない。たとえばドアが自らの意思によって勝手にばたんばたん閉じたり開いたりしたら、それこそ危なっかしくてしかたがない。それではまるで……自動ドアだ……。


あなたの自発的な【むこう側】へ行きたいという気持ち。【むこう側】はどんなかな?という淡い期待。たとえあなたが【むこう側】へ行きたいとほんのちょっぴりとしかおもっていなかったにしても、「ドアが開く」という物理現象は、ドアノブを握ったあなた自身の自発性のたまものである。あなたはそのことにじゅうぶんほこりを持っていい。もっといえば(もっといってもいいかな?)、ドアを開けるということは、【むこう側】と【こちら側】の境界線をなし崩しにしてしまうことでもある。


そこは風の通り道だ。滞った空気を入れ替え、まだ湿っぽい洗濯物を乾かし、植物の種を方々へと撒き散らせ、ランダムで郵便的な植生を大地に根付かせる。


そういう意味でドアとは、さまざまな局面で隠喩的存在としてくり返し語られてきたようにおもう。多くの場合、それは大まかにいって人生に関するメタファーであり、空間と空間とを隔てていることによって、特に移動のメタファーとして用いられてきただろう。人類最大の発明品といっても、もはや過言ではない、あのドアのことを思い起こしていただきたい。そして、それが非現実的な、空想の世界の産物であるなどと決して考えてはならない。あらゆるドアは「どこでもドア」である可能性を秘めているのだから。そして「どこでもドア」とは、ほかならない「本」のことである。というのがわたしの考えだ。それはときには時間をさえも超える。

わたしたちは【むこう側】へ行きたいと願う。
ドアの【むこう側】へ。
ここではないどこかへ。
いまではない、いつかへ。

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「おはようございます」とわたしはいった。
「おはようございます。ってなあに?」とその男の子はいった。

男の子とわたしは閲覧室のなかでもとくべつに古い、立派な一枚板のつくえ越しに向かい合って座っていた。おたがいに顔を合わせるのはそれがはじめてのことだった。わたしは少しだけ緊張していたかもしれない。

そのつくえには、英語で「LOVE」を意味することばが、すくなくとも13ヶ国語で書きこまれていた。日本語でいえば「愛」だ。まったく意味のわからない文字だってあったから、正確な数はわからない。鉛筆やサインペンや、いろいろな筆記用具で「LOVE」は書かれていた。なかには彫刻刀のようなもので刻みこまれた「LOVE」だってあった。

それらのことばは、ほとんどの場合、よっぽどほんものの「LOVE」よりも長い時間、そこに刻まれつづけてきたのだった。だからこそひとびとはそうやって願いをこめて、そこに、つくえの上に、愛のことばを刻みこむことにしたのだろうとわたしはおもう。そうでもしなければ、愛がこの世から失われてしまうのだとでもいうように。


男の子はじつに不安そうな面持ちでつくえの上の「LOVE」をみつめていた。
まだ「LOVE」のことがよくわからないのだ。
はっきりいって、わたしにだってよくわからない。

とにかく、たくさんの「LOVE」が、かれの目のまえにはあった。
もちろん、それはわたしの目のまえでもあった。
つまり、わたしたちはたくさんの「LOVE」越しに向かい合っていた。
それはなんだか、さながら、囲碁や将棋の親子対決みたいな様相を呈していた。
ただ残念ことに、ふたりともそのゲームのルールを理解していなかった。


「『おはようございます』っていうのは」とわたしは説明した。「……じつは『おはようございます』がなんなのかは、わたしにもわからない」とわたしは正直にいった。「でもこんなふうに、朝早い時間にだれかに会ったときには『おはようございます』っていうことになっているみたいなんだ」

わたしのあやふやな説明を聞き終えると、男の子はだまってすべてを理解したというふうな顔をした。

「ふうん。じゃあ、おはようございます」
「うん。おはよう」
「ぬべすからっぽ、ちょんきそ!」と男の子はいった。

つまりはこういうことなのだ。かれは、その年齢の子どもたちにくらべて、著しくことばを話す能力が低い。学校の先生によってそう判断された。いつもまったくわけのわからないことばかりいっているから、教室でひとりぼっちになっている、と。心配した母親が、かれをわたしのところへ連れてきた。本を読ませて、ことばを教えてやってほしいというわけだ。

「『おはようございます』は嫌い?」
「べつに。どっちでも」
「もちろんそうだ。そんなことはどっちだってかまわない」
「ぼくがすきなのは、もっとちがうことばだよ」
「ぬべすからっぽ、ちょんきそ?」
「なにそれ」
「きみがさっきそういったんだよ」
「……グーテンベルク」
「なんだって?」とわたしはおもわず訊き返した。

そんなことばが、かれの口から出てくるだなんておもいもよらなかった。わたしはおもわずソファの上のアルカリをみた。かれはこの事態については完全に無関心を貫くことに決めたみたいだった。なんだかわたしだけがこの部屋のなかで進行中の事態をまったく理解していないみたいだった。


「ぼくがすきなことばだよ。グーテンベルク」


いったいどこから話しはじめたらいいのか途方に暮れてしまうのだけれど、人類は「本」というものをかつて発明したのだった。

グーテンベルク。

もしかしたらそのようなことばを聞いたことがあるひともいるかもしれない。火薬、羅針盤、そして、グーテンベルクの活版印刷。ルネサンスの三大発明だ。

グーテンベルク。

なんだかとてもきれいなことばだとわたしもおもう。
それはラテン語で「良き山」を意味することば。

かつてそのようなうつくしい名前のひとがいた。
かれはとてつもないことを成し遂げたのだ。
そしていまでも、わたしたちはかれのつくった銀河のなかにいる。
グーテンベルクの銀河系に。

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なぜ閲覧室のドアは閉じたり開かれたりすることがなかったのか? なんのことはない、それは端的にいって、ドアにとって蝶つがいの次に大切だといわれるドアノブがそいつからは失われていたからだ。

閲覧室から出るときに使う側のドアノブ。いつだったかもぎとれてしまったのだ。もぎとったのはわたしだとおもう。たぶん酔っぱらって。ドアノブはなくなってしまった。なくしたのもたぶんわたしなのだ。

わたしたちはいろいろなものをなくしてゆく。わたしたちの生涯とは、いろいろなものをなくしてゆくその過程だといったっていい。それはどうしたってしかたのないことだ。わたしたちはいわば野に咲くタンポポの綿毛だ。その上を風が吹き抜けてゆく。

なにもなくすことがない人生などといったものは、もしかしたら存在しないかもしれないとわたしはおもう。それに耐えることをまるで課せられているみたいに、わたしたちはいろいろなものを、たくさん、なくしながら暮らしてゆく。そして最後の最後まで残るもの、それが死だ。わたしたちがよく知っているようでいて、実のところなにひとつ知らない、あの有名な死というもの。死んだら、たぶん、わたしたちはもうそれ以上なにもなくさずにすむのだろう。だから生きているということは、なにかを失いつつあるということ。すべてを持ったままで、先の道に進むことはできない。そんなことはだれにもできない。

それでも、いつからかわたしはこう考えるようになった。わたしがなくしたものは、かならずこの地球のどこかにあるのだ、と。これは熱力学の第一法則から着想を得たのだった。そういう意味では、わたしたちひとりひとりはこの地球ではなにひとつ失うことがない。そしてもちろん「哀しみ」とはそのことだ。どこかにあるのに、ここにはない。ここにいるはずのだれかが、ここにはもういない。あるべきはずの場所に、それがもう、おそらく二度とは存在しない。

つまり、ドアノブをもぎとられたドアのことだ、哀しみとは。

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「グーテンベルクが好きなんだね?」
「ううん。グーテンベルクがすきなわけじゃない」
「どういうこと?」
「グーテンベルクということばがすきなだけ」
「なるほど。ほかに、なにか好きなことばは?」
「ペヤング」
「ほかには?」
「フマキラー」
「ほかにもなんかある?」
「ぼくたちは三日三晩かけて/腕がちぎれそうになるほど泳いだ/うちゅうふくの顔のところが吐息でしろく曇るまで/通信機のむこうからカムパネルラの声がする/ジョバンニ、あれがみえる?/ぼくたちはあそこからきたんだよ/遠くでぼくたちの街の灯りがまたたいて/まるで豆電球のようだった/というような比喩はこれからはLEDになるのかね/それでも、ここも、まだグーテンベルクの銀河系なんだ」

つまりはそういうことだ。その男の子は「詩人」だったのだ。

「いつでも好きなときにこの図書館に来ていいよ」とわたしはいった。
「ほんと?」
「もちろん」
「家にある本はぜんぶ読んじゃった」
「うん」
「ねえ」
「なんだい?」
「愛って、なんだろう」
「ごめん、わからない」
「ぼくにわかるときがくる?」
「来るかもしれないし、来ないかもしれないし」
「まあそうだよね。ぼくもそんな気がするよ。ありがとう」
「どういたしまして」とわたしはいった。「ところで、名前を聞いてもいいかな?」
「ノブオ。みんなにはノブっていわれてる」と男の子はいった。


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もしあなたがドアだとしよう。そしてドアノブを失ってしまったところを想像してみてもらいたい。酔っぱらいの手によって、力任せにもぎとられてしまったところを。わたしだったらいっそのことつくえにでもしてもらいたいと思うことだろう。もうそこに、ドアノブという最良の伴侶なしで立っていることに疲れ果ててしまって。そういう意味では、〈蜂蜜公園〉にやって来たあとのわたしは、つくえのようなものなのかもしれない。でも自分がつくえなのかどうかなんて、考えるだけでも馬鹿馬鹿しい話だ。それは自分ではわからないことだからだ。しかもつくえはそんなこと考えたりしない。

そんなわけで閲覧室のドアはもう二度と閉められなくなってしまった。閉めると、今度はもう二度と開けられなくなってしまうから。いつかドアを閉めるとき、わたしはここに閉じ込められることになるだろう。


だから残された唯一の仕事が舞いこんできたその早朝、ここぞとばかりにドアはノックの音を響かせたのだった。高らかに。ほこらしげに。いささか皮肉混じりに。少なくともおれはノックの音を響かせることができるんだぜ、とでもいいたげに。

だがマーヤがその朝、閲覧室のドアをノックしたのは、なにもそんなドアの自尊心をくすぐるためではなかった。 



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