prologe:
蜂蜜公園の新しい夜明け

リチャード・ブローティガンと
その母であるメアリー・ルーに捧ぐ
その夫、バーナード・ブローティガンにさえも

の強さにくらべたら、それは、とてもゆったりと〈蜂蜜公園〉をわたってゆくのだった。ちょっとした光の加減でそう見えるのだ。何かがそこを移動してゆくように。

る夜更けのこと。わたしは丘のようになった広場のいちばん高いところに立っていた。〈蜂蜜広場〉はなだらかなちょっとした丘になっていて、そこからだと夜の〈蜂蜜公園〉のすべてを眺めることができる。といっても、ほとんど何も見えはしなかった。なにしろ、夜のここは、赤ん坊の口の中におさまるくらいの広さで、かれが眠っているあいだ、わたしたちはまったくの暗闇に包まれてしまうのだから。ほんとにここはまっ暗だ。どれくらいまっ暗なのかというと、夜がぎっしり詰まった箱を頭からかぶせられて、わたしたちはもう夢を見るしか手立てがないほどなのだ。

たしは夜明けを待っていた。赤ん坊が口を開くその瞬間を。目覚めて、まず最初の大きな、長いあくびのような夜明けを。その晩わたしはうまく夢を見ることができなかったし、そもそもうまく眠りにつくことさえできなかったのだ。〈蜂蜜広場〉は夜明けを待つのにはまずうってつけの場所だった。

ても静かで、動くものはほとんど何もなかった。わたしのやって来る音を聞きつけて、さっそく虫たちは鳴くのをやめてしまったのだ。ここの虫たちは恐ろしく敏感で、自分たちの鳴き声以外の音がするところではまず鳴くことはない。ちょっとの音でも、すぐに鳴くのをやめてしまうのだ。だからもし、自分が生きているのかどうか知りたいのなら、夜中にここにやって来るといい。虫たちがまだ鳴いていたら、あなたには悪いが、あなたの身にはたいへん悲劇的な事態が持ち上がっているといってまず間違いがない。それほど繊細な虫たちなので、その鳴き声を耳にしたことがあるものはほとんどいない。かれらの鳴き声はとても小さくて、遠くからではまったく聴くことができないのだ。それでもかれらは絨毯のように息を潜めて〈蜂蜜広場〉のいたるところにいるはずだ。かれらはここにしか住むことができないのだから。

けさは、わたしの身体のどこかにある傷口から消毒液として染みこんでくるようだった。わたしのまわりにはまったく人がいなくて、それはそれでいい気分だった。荒野の真ん中にぽつんと立っているひとりぼっちのトーテムポールみたいに、わたしはじっとして、ただ夜明けだけを待っていた。ひさしぶりに会う約束をした友人を待つみたいな気持ちだった。

の中のくるみのように、わたしは誰もいないときの雰囲気にしっかりと包まれていて、そこから逃げ出すなんてことはできそうにない。まだみんな眠っている時間なのだ。わたしにはそのことがわかっていた。だから女の子にフラれたばかりの男子中学生みたいに、ひとりぼっちだと思いこんだりはしなかった。でも、それでも、時間を失った大理石の彫像のようにあたりは凍りついていたから、すべては死に絶えてしまったのに、わたしだけがその終わりに気づいていないかのようだった。鉛筆の芯にでもなったような淋しさなのだ。わたしはときどき、自分の身体がちゃんと動くのかどうか確かめなくてはならなかった。と同時に、わたしの目はまだ動いているものを探そうとしていた。探さずにはいられなかった。1945年の野良猫になったみたいな気分だった。

がて風が吹きはじめた。地球の風力調節係がわたしのリクエストに応えてくれたのだ。急に強く、風が吹きはじめたのだった。世界の果てから、もう一方の世界の果てへ向かって風は吹いていた。それまで止まっていた時計が、ふたたび動きはじめたような感じだった。おかげで少しは〈蜂蜜広場〉もにぎやかになった。部屋に存在する壁という壁をすべて取り払ってしまったかのように、好きなように、好きなだけ、風は吹きまくっていた。

たしの背中の方角から風は吹いてきた。ときどき、風が背中を通り抜けているみたいな気がした。わたしの気のせいかな。でもそんな感じなのだ。
この季節、〈蜂蜜広場〉は一年のうちの最後の芝生におおわれていて、寝ころがるのにはまずまずの柔らかさだった。でもわたしは立っていた。
いつもなら、芝生の上に寝そべって、わたしはただぼんやりと夜明けを待っているだけだった。そうするのがわたしは好きなのだ。眠れない夜やなんかに、わたしは〈蜂蜜広場〉まで歩いていって、そこの特等席に寝ころがる。空は星だらけで、純度の高い蜂蜜糖の結晶のようにキラキラ輝いている。それは遠くにあるはずなのに、あまり遠くにあるようには感じられない。だから、もしかしたら、そんなに遠くにあるのではないのかもしれない。とにかく、寝静まった深夜にキッチンを徘徊するゴキブリのように、わたしは〈蜂蜜広場〉まで出かけていくのだった。

がて夜明けが、律儀な郵便配達夫のようにやって来る。そこから見る夜明けはあまりにも素晴らしかったので、わたしにはそれだけでもう十分だったのだ。それ以外の何かを見ようとしたことなんて、一度もなかったことだった。なんとなく、神聖な気持ちだったのだと思う、そのときのわたしは。部屋の掃除をした後のような、軽く神聖な気持ち。
だからわたしは立っていた。

の空が白みはじめたときだった。風が吹いて、何かがゆっくりと通り過ぎた。遠くの方にそれが見えた。川を保護するように群れをなす草むらの上を、何かが移動してゆくように見えたのだ。そのとき、風のせいで、草むらが何段階か明るい色に塗り替えられたみたいに見えた。まるで魔法のようなのだ。風が吹くたびに、草むらの表面を淡い光の帯がいきもののように通り過ぎてゆく。それを追いかけるようにして、つぎの帯がまた通り過ぎていった。追いかけるたびに、だんだん、その帯は明るさを増してゆくのだった。

れは遠くでやっと見えはじめて、もっと遠くへ向けて、どんどん遠ざかっていった。
わたしが実際に感じる風の強さと、遠くの方で見えるその帯のようなもののあいだに関係があるようにはどうしても見えなかった。どこかに目に見えない境界線があって、そこを越えるとたちどころに風はスピードを弱めるのか、遠くの方で、それはスローモーションのように、夢の中の風景のように動いているのだった。
もちろんそれはただの風なのだ。いうまでもなく。
スタジアムで大群衆がウェーブするときみたいに、草が順序よく立ったりしゃがんだりしているのだ。しゃがんだ草はふたたび立ち上がるとき、よりいっそう明るい表情に変わる。せいいっぱい背伸びして、草は夜明けを待ち受けていた。草もわたしと同じ気持ちなのだった。

たしたちの上空を、朝の鳥たちが、まだ生まれたての想像力のように羽ばたいていった。かれらの歌う歌が、毎朝、わたしたちを祝福してくれるのだ。いや、それはもしかしたら、ただのおしゃべりのようなものなのかもしれない。祝福だなんて、思い違いもいいところなのかもしれない。でも、わたしたちは、それを祝福と受けとることだって可能なわけだ。なら祝福と受けとったって構わないではないか。もちろん祝福と受けとらなくたって構わない。わたしはそれを祝福と受けとった、というだけの話だ。
どこからか、ビートルズの「ヒア・カムズ・ザ・サン」が聞こえてきた。それは、わたしの頭の中からだった。わたしの耳の奥で、ジョージ・ハリスンが何度もイントロだけを弾いていた。かれがエリック・クラプトンの家の庭で作った曲だ。

 ずっと長いこと
 太陽を忘れていたような気がする
 ほら 陽が差しこんできた
 これで もう大丈夫さ

明けは近かった。
もうすぐで、〈蜂蜜公園〉をくまなく包む、完全な夜明けがやって来る。
そうすればここは、蜂蜜の匂いでいっぱいになるだろう。
わたしは風下に向かって丘を下ってゆき、川のそばに出た。
黄金色の流れからはもう蜂蜜の匂いが漂いはじめていた。

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