最初は気のせいかとおもった。そういうことってあるでしょ? なにかおかしなことがあったときでも、これはべつにたいしたことじゃない。こんなことはよくあることだ。そうかんがえて、すこしくらいの「おかしなこと」なら、あたしたちはやり過ごすようにできている。それは、ひとが、このうつろいゆく世界で生きていくなかで、せっせと身につけた知恵のうちのひとつなのかもしれない。だって、ちょっとした変化をいちいち気にしていたら、あたしたちは、きっと、ひとときも安心していられないだろうから。

あたしはちいさいころ雷が怖くて、必死におへそを隠したりした。雷さまがおへそをとるとか、かっぱが尻子玉を抜くとか、いったいなんなの?っておもうけれど、そこにはそれなりの教訓があるんだよね。それは雷が鳴るときには急激に気温が下がるから、おなかを冷やさないようにしたほうがいいよ、とか、おへそを守る姿勢、つまりはなるべくかがんで身を低くした方がいいよ、みたいなこと。尻子玉のことはよくわかんないけど。だってあれは架空の器官でしょ、たぶん。

かっぱはお相撲が好きで、お相撲でかっぱに負けると人間は尻子玉をとられてしまうんだって。でもお相撲をとるまえにこっちがお辞儀をすれば向こうもお辞儀をするから、そのときにお皿の水がこぼれて、かっぱは力が出せなくなるみたい。だから、あなたも覚えておくといいよ。もしかっぱとお相撲をとるようなことになったときにはね。ようするに、礼儀は大事だよってことかもね。

話がそれちゃった。

雷の怖さを、あたしたちはたぶんことば以前の動物的な感覚で知っている。脳のなかの、いちばん古くて奥深い場所に、その恐怖の記憶が刻まれているのを感じる。クローゼットの奥のちいさな箱の底にひっそりと忘れられている古い手紙みたいに。

そして雷は「神鳴り」で、その畏怖の念はことば自体にも込められている。遠くまで響き渡り、まさしく空を引き裂かんばかりの巨大な音。あんな音のするものは、きっと神さまが鳴らしているにちがいないというわけ。そしてその上で、その対策として、雷という自然現象を擬人化して、ことばに置き換えておいてくれた誰かがかつて存在した。あたしたちはそれをなんとなく伝えつづけて来ていまにいたる、というわけなんだけど、これって驚くほど科学的じゃない? 雷のときにはおへそを隠しましょう、という教訓には、そのような知恵と力が内包されているってわけ。

そう、それで、あたしはもう雷が平気になった。それは大人になったからということではあるんだろうけれど、その平気さというのは「これまでだいじょうぶだったから」ということに過ぎないのかもしれない。だからあたしは雷なんて平気とおもいながらそこらへんを歩き回って、いつの日か雷に打たれて死んでしまうかもしれない。あたしはあたしの「平気さ」をときどきは疑ってみなければいけないのかもしれない。

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だからあたしは、そのちいさな最初の違和感を紙に書いてみることにした。

 

なんか音がへんっぽい(気がする)

耳がおかしいのかな?

 

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はじめのうちは、なんとなくだった。なにかがおかしい気がした。どこかが変だった。それは長年の勘のようなものだった。〈蜂蜜公園〉にやって来てから、ずっとこの仕事をしてきたのだ。来る日も来る日も、ミツバチの世話をしてきたのだ。

そのちいさな違和感は、やがて、ぼんやりとした形を取りはじめる。おおきな黒雲が、どこからともなく発生するみたいに。

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ミツバチのざわめきが、ちょっとずつ、ちいさくなっているような気がした。まるで、それぞれのミツバチたちが日ごとに元気をなくしつつあるみたいだった。いちど、そのことに気がつくと、もうそれ以外の可能性をかんがえることが、かの女にはできなくなってしまった。でも。

もしかして、わたしの耳が遠くなってしまったのかも。

マーヤはまず、そうかんがえた。

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「あたしは迷いなく真夜中の〈蜂蜜広場〉に行ってみた。あなたはあの広場にいる虫たちの声はほとんどだれも聞いたことがない、と書いてたでしょ? でも、ほんとのことをいうと、いつでもあたしには虫たちの鳴き声が聞こえてた。ほんのかすかにだけど」
「じゃあ、あの部分は書き直さないといけないね」
「残念ながら、というのもおかしいんだけど、虫たちの声はちゃんと聞こえちゃった。いつもと同じくらいのおおきさ、というかちいささで。だから、あたしの耳が遠くなったというわけではなかった。そうであってくれたほうが、どれほどよかったかとおもうけど。あたしのこのふたつの耳は世界をちゃんと聴きわけていた。臆病で鋭敏な野生動物みたいに」

つまり、ミツバチたちの身に、なにかが起きているのだ。マーヤはそう確信した。

「ねえ、この季節はふつう、ミツバチたちがどんどん増えてゆく季節なんだよ。いったいなにが起こっているっていうの?」

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一日に何百、何千という単位でミツバチは減っているみたいだった。ある程度までかれらの活動の音がちいさくなってくると、もう見逃せないほどにミツバチの個体数が減っていることを、マーヤの目はっきりと認めないわけにはいかなくなった。

そのかわりに、〈蜂蜜公園〉には存在しないはずのおおきな蜂の姿がやたらと目につくようになってきた。まるで悪い知らせそのものみたいに不吉な音を立てて。

「ここにはスズメバチなんて、ほんとうはいないはずなんだ」とマーヤはいった。「あたしがこの仕事を受け継いだときにね、先輩のマサオから聞いた。呼び捨てだけど気にしないで。マサオはいちおう、あたしにいろいろなことを教えてくれて、スズメバチはミツバチの巣を襲って巣ごと奪い取ってしまったりするんだ、っていってた。たった何十匹かそこらのスズメバチで、巣のなかのミツバチが全滅させられてしまうことだってある。あたしたちがここで、この〈蜂蜜公園〉でやっていくには、スズメバチがいないことがいちばんの条件だった。「ここはスズメバチがいない土地だ」ってマサオは誇らしげにいってた。だからおれたちはこれまでうまくやってこれたんだ。おれたちは、なんでも蜂蜜糖でつくる。それにはミツバチの長期的で安定的な生存が必要不可欠なんだ、って、偉そうにいってた」

「でも、きみはいないはずのスズメバチをみかけた」

「こんなこといままでにいちどもなかった。これじゃあ春になるまえに、みんないなくなっちゃうよ……」
「マーヤ、とにかくすこし眠ったほうがいいんじゃないかな」とわたしはいった。「きみはぜんぜん眠っていないようにみえる」
「だってあの子たちが心配なんだもの」
「もしなにかが起こっているのだとしても、それはきっと真夜中のことだろう。だって、きみはまいにち、朝から晩までミツバチたちの世話をしているんだから」
「……わたし聞いたんだ。夜中までずっと起きていたとき。じっと耳を澄ませていた。そうしたら……」

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「ここでなにをしてる?」とわたしはその男たちに声をかけた。マーヤから相談を受けた日の真夜中過ぎのこと。わたしたちは思いきってマーヤの家の裏側に張り込んで、ミツバチたちの巣箱のある庭を、ふたりで監視することにしたのだった。ブレーメンの音楽隊みたいに上と下になって。

わたしの持つ懐中蜂蜜灯の光のなかに浮かび上がったのは、黒いスーツを着たふたり組の男たちだった。ひとりはテンガロンハット。もうひとりはソンブレロ。ひとりは色白で太っていて背が低く、もうひとりは色黒で痩せていて背が高かった。ふたりが並んでいると片方はよけいに太っちょで白く見え、もう片方がよけいにのっぽで黒く見える、そんな組み合わせだった。

男たちは黙っていた。「あんまり見かけない顔だけど」とマーヤがいった。男たちはまだ黙っていた。「とにかくこっちへ来てもらおう。ちょっと話がしたいんだ」とわたしはいった。

わたしたちはかれらを管理人の小屋まで連れていった。とくに逃げるような素振りは見せなかったし、抵抗する様子さえ少しもうかがえなかった。まるではじめからそのつもりなのだ、とでもいうように、男たちは管理人の小屋までおとなしくわたしたちと歩いた。

眠りのまっただなかにいたエスが管理人室のドアを内側から開くと、それが合図だったみたいに、ふたり組のひとりが突然口をひらいた。太っちょの方だ。

「まず話すのはおれたちだ」

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「ここは、もともとおれたちの土地だ」と太っちょは話しはじめた。「いいか、ここは〈忘れられた世界〉というんだ。あんたたちがどう呼んでるのか、そんなことはどうでもいい。ここは〈忘れられた世界〉なんだ。おれたちのじいさんはそういっていた。ここを発見したのはおれたちのじいさんの、そのまたじいさんの……、えーと、そのまたじいさんのじいさんくらい、だったかな?……とにかく、だから、ここは〈忘れられた世界〉なんだ」

わたしはエスの顔を見た。めずらしく困ったような顔をしているようにみえた。〈忘れられた世界〉について、なにか知っていることがあるみたいだった。

「〈忘れられた世界〉ってなに!? ここは〈蜂蜜公園〉なんだけど!」とマーヤは怒鳴った。マーヤは感情的になっていて、わたしはかの女のそういう姿をこれまでいちども見たことがなかった。

「あんたたちでしょ! スズメバチを持ちこんだの!」とかの女はいった。
「その通り」と太っちょがいった。

「おれたちは雀蜂兄弟だ」

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「おれたちはここを取り戻しに来た」と「雀蜂兄弟」の太っちょがいった。のっぽはなんだか恥ずかしそうだった。「『雀蜂兄弟』なんていやだよ、おれ」といかにものっぽはいいたそうだったが、案の定はじめて口を開いたのっぽから発せられたのは「『雀蜂兄弟』なんていやだよ、おれ」ということばであった。太っちょはのっぽの尻をめいっぱい蹴り飛ばした。「じゃあ、おれたちはスズメバチ・ブラザーズだ。これならいいか?」と太っちょはいった。のっぽはふたたびおとなしくなった。かりんとうのように口を閉ざしてしまった。

「兄弟喧嘩はやめてもらいたい」とわたしはいった。「とにかく、どういうこと?」

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「あんたたちの巣箱はみごとなものだ。こんな仕事はかんたんだと決めてかかっていたんだ、おれたちは。この公園を訪れ、スズメバチを放ちさえすれば、おのずとミツバチの数は減っていくだろうとね。でも、おれたちの蜂はあんたたちが蜂蜜糖でつくった巣箱に入ることができなかった。ちゃんと、細かい網の目で巣箱はみごとに守られていた。ミツバチは出入りできるがスズメバチは入れない。そんなすばらしい巣箱だ。あんたたちのやつは。だからおれたちが深夜にこうしてちょくせつ動くことになったんだ」と太っちょはいった。

「でも、結局のところ、」とのっぽが引きとっていった。「とんでもない誤算だった。そもそも話がちがったんだよ」

「いったいどういうことなの? ぜんぜん話が見えないんだけど」とマーヤ。

「あんたたちのミツバチだけど、いったいどこから連れてきたんだよ?」と太っちょはいった。
「とりあえず、みんな、部屋に入ったらどうだろう」とエスがまぶたをこすりながらいった。

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こうしてわたしたちはみんな、エスの部屋の応接間におじゃまさせてもらうことになったのだった。雀蜂兄弟は土足のままで部屋に上がろうとした。マーヤが太っちょの後頭部をこづいて、「脱ぎなさいよ!靴!」といった。そのいきおいでテンガロンハットが脱げて転がり、太っちょの頭髪がいちじるしく薄いことをわたしたちは知った。ひとしきり無言のときが流れた。そのあと、ふと思い出したように兄弟たちはおとなしく靴を脱いだ。ぶっきらぼうなのか、従順なのか、なんだかよくわからない男たちだった。

 

「おれたちはゴースト・ラリアから来た。ここを取り戻しに」と、あらためて太っちょはいった。「おれたちだって、手荒なまねはしたくない。なんたってもうそういう時代じゃないからな。だからミツバチを全滅させようとおもったのさ。そうすれば、あんたたちはここにいられなくなる。そうだろ?」と太っちょはいった。「その後で、おれたちがここに住む。そういうわけだ」
「手荒なまねじゃない、ですって?スズメバチに刺されたりしたら死ぬかもしれないし、なにが『そういうわけだ』よ!」とマーヤはいった。
「いや、だいじょうぶだ」とのっぽがいった。「毒を取ってあるんだ。だからぜんぜんだいじょうぶなんだ」
そういって、のっぽは内ポケットから小瓶を取り出してみせた。そのなかにはおおきなスズメバチが何匹か、いかにも居心地悪そうにしずかに収まっていた。「よけいなことをいうんじゃねえよ」と太っちょがいって、のっぽの二の腕を思いっきり殴った。すごく痛そうだった。危うくのっぽは小瓶を取り落としそうになっていた。わたしはのっぽに同情してしまった。かれがなんだか可哀想だった。

「あんたたちは蜂蜜糖のことばを話す」と太っちょがつづけた。「それがいったいどういうことなのか、あんたたちにはわかってるのか?」
「どういう意味?」とマーヤは声を荒げていった。「なにがいいたいの!」
「あんたたちは、なにも、わかって、いない。なーんも・わかって・ない」と太っちょはいった。

「あんたたちのことば、その蜂蜜糖語ってやつだけどさ、ちょっと甘すぎるんじゃないのかな」

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