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ジャワティ

2005,04,30,Saturday

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酒を飲むのをやめてから2ヶ月くらいたったわけですが、って、まあ、まったく飲まないってわけじゃあなく、居酒屋に行ったら飲むし、お花見のときには飲んだし、バーベキューでも飲んだりはしていたわけですが、日常的に酒を飲む、という習慣はこれ、3月に入ったあたりからまったくやめにしたわけです。なんでだっけな。忘れた。飽きたのかな。でもとにかく、飲むのをやめた、と。じゃあその代わりになにを飲んでるのだ貴様は。っていうと、これ、なにを隠そうジャワティです。ジャワティどこに売ってんだよ。と以前から思っていたわけですが、見つけたんですね。近所のスーパーで。2リットルのやつ。前はなかったと思うんだけどね。しかもこのスーパー、会員になると会員価格というやつでものを買うことができ、なんとジャワティ2リットル、202円なわけです。安。でね、だいたいこの2リットルを2日で飲み干すよ。俺。もうスーパーに行くたびに喜んで買って帰ってくるわけなんですが、そんだけ飲んでるのに、もう飲むたんびに、うまい!と感動しておるわけです。うめえ。と実際声に出していうわけです。いやあ本当にうまいよ、これ。ジャワのティ。ジャワのティ。ジャワのティ。と意味もなく3回繰り返すくらいだよ。いつかジャワに行った暁には本場のジャワのティをしこたま飲んでみたいなあ。とか、まったく思わないよ。これでもう完璧。しかも先日、牛乳を飲んでは腹を壊す。ということを繰り返していたぼくの、主に腸のあたりを慮ってか、「ジャワティに入れたらええやないの。牛乳」という意味のことを標準語でグリコさんはいい、なるほどそいつは名案ってんで、さっそくこのパーフェクトなドリンクに牛の乳を混ぜて飲んでみたところ。うまっ。さらにうまっ。となって、それからはふつうのジャワのティとジャワのミルクティを交互に飲んでいるよ。俺。いやあ。マイドリンクが決まるというのはいいものだなあ。

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『花とアリス』

2005,04,11,Monday

岩井俊二『花とアリス』を観た。DVDで。二回。DVDで映画を観るようになってから、二回観るようになったのはなんでだ。巻き戻さなくていいし楽だからか?もしかしたらほんとにそうなのか?

というわけで「雑誌のモデルのオーディションにおいて、紙コップとガムテープを使って即席のトゥ・シューズを作り、床から5センチくらい浮き上がってバレエを踊るために、彼女はいかなる物語を語らなければならなかったか?」というタイトルで論文調でいってみようかと思ったけどそれは止めて簡単に。あくまでもメモとして。

ひとことでいうと、この映画は、かつて「花」を救った「アリス」が、「花」の嘘に巻き込まれることによって自分も嘘をつかざるを得なくなり、そのような生活を通して結果的に救われる、という話であるように思う。ここでいう「救い」とは、それほど大それたものではない。具体的にいえば、それは、街で芸能プロダクションにスカウトされたものの、それまでは芸能活動に対して消極的だった「アリス」が、オーディション会場で得意なバレエを踊って見せ、そのことによってかよらずか、みごと合格し、ティーン雑誌の表紙を飾ることになる。というほどのことである。ほんのちょっとだけ前に出ること。がこの映画では描かれており、それは現実に根ざした物語(両親の離婚問題)を生きる存在であった「アリス」が、「先輩」との思い出を捏造するにあたって、「現実に根ざした物語」を脱臼させ、虚構の物語として語り直す、という行為に集約されているだろう。虚構の物語を提供する者=雑誌の表紙のモデルとしての「アリス」は、虚構の側へ一歩前へ出ること、紙コップとガムテープを使って作ったトゥ・シューズで床から5センチくらい浮き上がることによって、相対的に「花」を虚構の世界から一歩遠ざける。それはかつて家の中に閉じこもりがちだった「花」を、「アリス」が部屋の外へと救い出したことの反復である。したがって「花」はもう作り話をする必要がなくなり、あれほど練習した落語を誰にも聞かせることなく文化祭は終了する。それは捏造された記憶に基づいた恋愛から、とりあえずは現実に根ざした記憶に基づいた恋愛への移行を「花」にもたらすだろう。というわけでこの映画は、かつて「花」を救った「アリス」が、「花」の嘘に巻き込まれることによって自分も嘘をつかざるを得なくなり、そのような生活を通して結果的に救われ、そのことを通じて「花」を救うという、美しい友情の物語である。

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tialence

2005,04,08,Friday

tialence」を食べました。見るからに高級感の漂うヨーグルトです。これ、凍らしたらハーゲンダッツになるんじゃないかな。とでもいったようなパッケージ。まずはマンゴーの方を食べてみましたよ。最近はよく、というか毎日ヨーグルトを食べていて、いつもは明治ブルガリアヨーグルトの「LB81低糖」というやつを食べているのですが、今日はちょっとたまには違うものをと思い、あ、そういえば。てなわけで「tialence」にしたというわけなのです。CMが印象的だったのですね。ジェマ・ワードさんというモデルさんだそうですよ。ぼくがCMの映像と商品をきちんと関連づけて覚えていられたなんてとんでもなく珍しいことです。と思ってサイトの方で今CMの映像を見てみたんですが、まるで覚えがありませんね、これ。はじめて見たみたいな感じ。どうやら女の子の顔しか記憶していなかったみたいだ。ということは、このCMがヨーグルトのCMだったってことをぼくは買う時点では知らなかったわけで、じゃあどうやってこれをコンビニの棚から選んだのか、すべては謎に包まれてしまいました。迷宮入りです。いったい、いつ、あの女の子の顔とヨーグルトが結びついたのでしょうか?おそらく事実はこういうことなのだと思われます。まずなんらかの偶然により「tialence」を買ってきた。食べた。それについて「何か書くか」と思った。サイトにアクセスした。そうしたらCMで見かけた女の子の写真があった。ああ、あのCMはヨーグルトのCMだったんだ。とはじめて気づいた、と。それなのにいざ何か書く段になったら、「CMが印象的だった」とか「ぼくがCMの映像と商品をきちんと関連づけて覚えていられたなんてとんでもなく珍しいことです」などといった記憶の改変が行われてしまったのです。でももう大丈夫!すべては明るみに出たのです!これで安心して食べた感想を書くことができます!それでは感想の方を。えーと。これ、プチダノンですね。といってもプチダノンなんてもう何年も食べてないわけでして、記憶の中のプチダノンに過ぎないわけですが、でももっと水分が少ない感じかな。そしてなめらか。これはもうヨーグルトというよりは、フルーツの入ったクリーム。みたいな感じだなあ。感想の方が短かったなあ。

food 2005,04,08,Friday
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『スイミング・プール』

2005,04,01,Friday

フランソワ・オゾン監督の『スイミング・プール』って映画を昨日今日と二回観たんですが、これがもうめちゃくちゃ怖かったんです。こわ。と感じたのは一瞬のことに過ぎないのですが、そこからじわっと鳥肌が立つっていうか背筋が寒くなるっていうか戦慄が走るって感じで、エンドロールの最中に映画全体が不気味なものに変化してしまう、とでもいうような。ああ。いま走ってるな。ぼくの背中を秒速10センチの戦慄が。というような。って別に10センチ、の根拠はないのですが、いや『秒速10センチの越冬』という小説があったなあそういえば、ぐらいの理由があるといえばあるんですが、秒速10センチってしかもそんなに速くないよね。戦慄としては。まあとにもかくにも、この10年でいちばんの怖さかもしれないですよ、これ。10年どころの話じゃないかもしれない。じゃあなんでそんなに怖いのかね。ってのをちょっと考えてみたのです。

なんかぜんぜんそんなつもりで観てなかったんですよ。なんの予備知識もなかったんで、謎解きとかそんなつもりでも観てなかったし、でもなんだかいろんな謎が仕掛けられているような感じな映画でした。主人公のサラ・モートンという女性はミステリー作家なんですが、彼女は映画の中で小説を書いているわけです。編集者の別荘みたいなとこにいって執筆している。そしてその小説(もしくは小説のアイディア)が映像化されて、映画に紛れ込んでいるのです。だからなにが本当に起こったことで、なにが起こったことじゃないのか、そのへんの細かいところがよくわからなかったな一回観ただけじゃ。たぶん厳密に撮られているのだろうけども。という推測のもとに、怖くて嫌だったんだけどもう一回観たんですね。で、やっぱり怖かったです。これ、どうして怖いのかな、って不思議なんですよね。別にホラー映画とか、お化けとか幽霊とか、そういうような怖さじゃないんです。普通の意味ではそんなに怖いって感じじゃない。しかももしかしたら怖がってるのはぼくだけかもしれない。と思っていっしょに観てたグリコさんには「怖かった」ってことは一回目観たあとではいわなかったんですよ。すぐ寝ちゃったし。で今日になってもう一回観てみようかってなったときに、やっぱすごく怖かったからもう観たくない、ってぼくはいったんですね。あの最後のところが怖くって、一日たったいまでもなんか怖い、と。こどもみたいなことを。そうしたらグリコさんも怖かったっていうんです。で、怖いと思ったのは自分だけかと思ったっていうんですよ。これはぼくらがめちゃくちゃ気が合っていてもう見るものすべてなんでもかんでも同じように感じるのである。とかいう話じゃないですよ。断じて。これサンプルが少なすぎるんであれなんですけど、思いっきり大胆に仮説を立ててみると、この映画の怖さっていうのは、この「怖いと思ったのは自分だけかと思った」っていうひとことに要約されるような気がするんです。つまりそれは「一般的な、共通理解の範囲内の恐怖」という範疇にはおさまらない種類の恐怖ってことだと思うんですけどね。本当に怖いことって隠されてると思うんですよね。

ではどういう風に隠されているのか?それは「怖い」ってのはこういうことですよ、ってのをある程度作り上げて、みんなで共有して、表立たせて、「本当に怖いこと」ってのを覆い隠して、そこから目をそらさせている。そんな気がするんですね。というかですね、怖いって誰かにいっちゃえばもうそれは怖くなくなる、っていうのありますよね。だからいってみればホラー映画ってすごく倫理的で教育的なものなのかもしれないなあと思うんです。きっと価値観が多様化し錯綜してくると、時代はホラー映画を求めるのだと思います。なんて適当にいってますけど最近なんか流行ってるんでしょ。ホラーが。日本発のホラー。みたいなのが。あー怖かった。うん怖かったねえ。とみんなで言い合って、きゃあ。とかいっちゃって手なんか握っちゃったりして、その共通理解や身体的なコミュニケーションへの動機づけは恐怖とはちょうど正反対のものですよね。怖いってのはつまるところ、ひとりだ、ってことですからね。ぼくたちは恐怖さえも仲立ちにして、そこに共通の価値観を見いだそうとする。打ち立てようと欲する。でもこの「スイミング・プール」の怖さは、もうちょっと複雑なものです。複雑だから単純なものよりも高級だ。という単純な話じゃないですよ。それはただ単に多く手順を踏む、ということに過ぎないのですから。あるいはですね、もっと根源的な怖さ、といったらいいかな。それらをまとめてひとことでいうと「現実が崩壊してしまう怖さ」だと思うのです。

ぼくたちはふだん自同律というものにしたがっています。A=Aというやつですね。まああんまり難しくなっても困るので簡単にいうと、ぼくたちはある文法に則って世界を分節化しているわけです。極端な例を挙げれば、ぼくたちは、まばたき前の世界と、まばたき後の世界を同一のものと見なすわけです。経験的に。って当たり前ですけど。で、たとえば映画を観るとき、ぼくたちはそれぞれの登場人物をアイデンティファイしようとしますよね。こいつは証券会社に勤めていて独身、高級マンションに住んでいる、とか、こいつは小説家、とか、変な眼鏡のやつ、とか、甲高い声のやつだなあ耳障り、とか、ブロンドの女の子ですげえ好みしかも巨乳、だとか、背が高い・低いとか、痩せてる・太ってるとか、マイケル・J・フォックスだ、とか、マイケル・J・フォックスじゃない、とかいう風に区別します。全員がマイケル・J・フォックスだったらこれは大変なことになります。もうなにがなんだか。という感じになります。たぶん。まあふつうはスクリーン上の人物を混同したりしないで、その中の主人公らしき人間に自然と感情移入し、ストーリーを追うことができる。それが映画を観ることだ。とぼくたちは考えているわけです。というか考えるまでもないというか。そして映画を作る側もそのように考えているので、すべての役をマイケル・J・フォックスにやらせる。なんて無茶なことはしないわけですね。それはなぜかというと、マイケル・J・フォックスが大変で疲れちゃうから。ではなくてそれが映画の文法に違反することだからです。もちろん例外はありますし、二役を利用したトリックが使われる、なんてこともあろうかと思いますが、基本的には映画の文法はそれを禁じ、なぜならそれは自同律に反するからなのです。なのです、っていうか、そうなんじゃないかなと思うんですね。現実がそうであるように、映画の世界においてもA=Aという原則はつねに前提されている、と。

そこにさまざまな問題があるにせよ、だいたいにおいて、そういう暗黙の映画文法。みたいなものにしたがって映画は作られているし、ぼくたちは映画を観ています。でも白状しますが、ぼくはこの能力が低いのです。ぼくは誰が誰だかすぐにわからなくなってしまう。現実では一度会った人はおろか、街で一度見かけたことがある。ということまですぐに判別できるのですが、映画となるとこれがどうも話が別みたいなのです。だからもう見終わってもぜんぜん意味がわからなかったりします。それはともかくとして、突き詰めていえば、映画という形式そのものが、ある分節化の仕方を、構造的に、観るものに対して要請するものであるわけです。そもそものはじめから。だって一秒間に24コマの静止画をぼくたちは勝手に映画に変換するわけですから。というような意味において、映画とはいつでもひとつの詐術であり得るのだし、ナチスがどのように映画を利用し、そこで映画がどのような役割を果たしたのか。ということを想起すればわかるように、それは容易にファシズムを組織することにもなるのである。あれ。なんか偉そうになっちゃった。ともあれ。

「スイミング・プール」はそういった映画の文法。というものをひっくり返すことで、映画と、ぼくたちとのあいだの安定的で良好な幻想関係に楔を打ち、破壊します。破壊へと導きます。それが戦慄の正体です。そのときAはAでなくなり、その瞬間を起点にして、それまでのすべての時間がほどけ、フィルムを観ることを通じて構築してきた映画。というものがいとも容易く崩壊してしまうことをぼくたちは感じます。ゆらゆらと水面が揺れ、そこに映った像がちりぢりに、千々に乱れてしまうかのように。それは現実が崩壊する。と言い換えても同じことです。なぜなら、その場所が映画であれ現実であれ、AがAであることを保証するものなど本当は存在しないからで、ぼくたちはただ経験的にそう思っているに過ぎない。という事実をこの映画は、まるで鋭く尖ったナイフのように、ぼくたちに突きつけるのです。そして逆説的に、この映画はひとつの、この映画特有の新しい文法を残し、最後にぼくたちに手を振って去っていきます。すなわち、スクリーン=スイミング・プールという自同律を。ぼくたちが覗き込む長方形のスクリーンは、サラが覗き込むプールなのです。

movie 2005,04,01,Friday
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実家に帰る夢

2005,04,01,Friday

窓を開けたら窓辺に置いてあったフライヤーやCDやDVDが外に落ちてしまう。外に落ちてしまうかもしれない。と窓を開けながら考えていて、落ちなければいいな。と思っていたのだが、やっぱり落ちてしまい、ああもう。なんでそうなったらやだなと思ってることってそうなるんだろう。面倒なことになったなぁと思う。地面は雪が溶けたあとか、雨降りのあとのようで濡れているので、フライヤーはもう駄目だし、CDやらDVDやらはなにかで拭かなければいけないだろう。面倒くさいから回収するのは後回しにしておこうと思っていると、隣の家の人が車で帰ってきて、車のリヤタイヤが落ちたものの一部を踏み潰してしまった。そこは隣の家の駐車場なのだ。いよいよ面倒になって、そのままほったらかしておくことに決めたが、気になって窓の外を見ているうちに、人から借りたものも混ざっていたのでやっぱり取りに行くことにした。

窓の外のすぐそばのその駐車場に行くには、実家の庭から行くしかないようなので、ぼくは何ヶ月ぶりかで電車に乗って実家に帰る。でも玄関のドアは閉まっており、鍵も持ってないし、インターホンを鳴らしても誰も出てこないので、もうこの家には誰も住んでいないのかもしれないなと思う。そういえばなんだかひっそりしているし、ここはもう空き家なのだ。と人ごとのように思う。だが少したったあとで、ドアが少しだけ開く。ぼくはドアの前まで行く。妹がドアを5センチくらい開けて、猫が入って来ちゃうから、という。どうしてかはわからないけれど、最近、家の中に続々と猫が入ってきてしまい、やっとのことで追い出したばかりなのであんまりドアを開けられない。ということらしいので、ぼくは5センチの隙間から家の中に入る。

dream 2005,04,01,Friday
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四月になると彼女は

2005,04,01,Friday

4月になりましたね。4月になるといつも「四月になると彼女は」を思い出します。サイモン&ガーファンクルの歌ですね。でも歌のことを思い出すのではないのです。「四月になると彼女は」ということばを思い出すのです。もしかしたら「四月になれば彼女は」かもしれないのですが、ぼくが思い出すのは「四月になると彼女は」です。四月になると彼女は。ぼくはいつも4月になると「四月になると彼女は」を思い出し、「四月になると彼女は」のあとにはどんなことばが続くのかなと想像します。四月になると彼女はなんなのだろう。いったい彼女はどうなるのだろう。でもさっぱり思いつきません。そしてぼくの頭の中には「四月になると彼女は」だけが残されることになるのです。

というわけでページをリニューアルしてみました。嘘です。リニューアルしてません。嘘です。リニューアルしました。上の方のやつがくるくるするので、右側のHOMEHOMEを連打してくださいませ。嘘です。いや、嘘です。くるくるしますし、連打してください。そんなわけで4月からは毎日更新します。嘘です。これはたぶん本当に嘘です。

diary 2005,04,01,Friday
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