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ウィッグ・ビーチ

2005,01,31,Monday

夕方になってから美容院に行く。重い腰を上げてようやく。昔はこんなではなかった。月に一回とか二月に一回とか、ちゃんとまめに通っていたのだ。自分でも信じられないけれど。

夕暮れの空はちょっとびっくりするくらいきれいで、自転車を止めてしばらく見入ってしまうほどだった。奇妙に澄み切った冬の空はやけに広く感じられ、それはもちろんこの地域一帯には高いビルなどといったものが一切存在せず、ぐるりと周りを取り囲むようにあるくっきりとした山々の稜線に嫌でも視線がぶつかることになる、という環境のせいもあるのだろうけれど、それにしても今日の空はあまりにも広く感じられ、まったくこの世のものとは思えないような景色だった。誰かが高い方から順番に青い絵の具を何度も重ね塗りしているみたいにじわじわと空は濃紺に置き換わってゆき、それは明確な境界を持たないまま夜へと雪崩れ込んでいった。塗っている本人ですら気づかないくらい、ゆっくりと少しずつ世界は夜へと変わっていった。深呼吸すると肺の中までもが青のグラデーションに染め上げられてしまうような気がした。朝日が昇るまで、人々の肺の中も夜なのかもしれない。

この前美容院に行ったのもたしか半年ぶりだった。美容院のスタンプカードを見たら前回訪れたのは7月31日。その前が1月30日だった。この無意識の規則正しさはなんなのだろう。というかそれが自分自身の容貌に対して許容できる限界ということなのかもしれない(といってもたいした容貌ではないのはもちろんのことです)。半年ぶりだから仕方がないのだけれど、信じられない量の髪を切ったり梳いたりしてもらい、しかもそれは閉店間際のことで、ほとんど申し訳ないくらいだった。床の上の黒々としたかさばる髪の毛たちは、とてもじゃないけれどさっきまで自分の頭の上にあったものなのだとは思えなかった。

深夜、CSで『17才』を観た。なにかが頭の片隅に引っかかっていて、これは観なきゃ、とすぐに判断したのだけれど、映画を観ているあいだずっとそれがどうしてなのかさっぱり思い出せなかった。どうしてこれを観なくちゃいけないんだろう、と。映画が終わるときになってやっとその理由が判明した。エンディング曲が七尾旅人の「ウィッグ・ビーチ」だったのだ。

こうして考えてみると、人の記憶というのはたいしたものですね。本人にしっかりとした自覚がなくても、その記憶は確実に行動を促しているわけだから。

ぼくはこの年になってまざまざと感じるのだけれど、ある限定された年齢、たとえば「17才」というものの特権性は、究極的にはそれがなんら特権的ではない、という事実から来ているのではなかろうかと思う。逆説めいた言い方になるのだけれど、つまりそれは一般的にはなんら特権的な性格を有してはいない。「17才」というものは、どう考えても一般的に、その一般性において語り尽くすことのできる種類のものではないからだ。ぼくときみの「17才」は限りなく違い得る。だとしたらそこにある特権性は、本人以外の誰かが容易く語れる種類の事象ではないはずなのだ。

だがそれゆえに特権的である、ということもできる。ぼくたちは生きていく上で、天寿を全うするその日まで、ある特定の月日が特別だったという思いにだんだんとらわれなくなっていくだろう。ぼくたちは自分で年を重ねていってはじめて、すべての月日が同じくらいの遠い距離として手に届かないことを感じるだろう。あるいは全ての月日が等しく手の内にあるように感じるだろう。「17才」が特権的なのは「17才」の人にとってだけであり、そういう意味ではぼくは彼女たちに共感するわけにはいかなかった。ぼくはもう「17才」ではないからだ。

映画がはじまるころ(深夜1時)にぼくはビールを飲みはじめ、気がつくと朝の6時まで焼酎を飲んでいた。ぼくはほとんど酩酊状態で、文章をたくさん書いていた。ぼくはなんとなく長袖のTシャツをめくってみた。『もののけ姫』の「アシタカ」が受けた呪いとそっくり同じ場所が不思議な感じに赤く染まっていた。その呪いは、ぼくが酔っぱらっているという事実を告げていた。

diary 2005,01,31,Monday
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そこにはいつものように「なにか」が

2005,01,29,Saturday

朝の8時までひとりで飲んでいた。最近はめっきり酒量が増えている。といっても可愛いものだ。円に換算したらそれはたぶん千円すら超えていないはずだ。少なくとも二千円はいってない。一日たかだか千円のアルコールで人はアル中になれるものなのだろうか。なによりぼくは貧乏性なのだ。

深夜から明け方にかけて灯りを消した部屋で、読書用の小さなライトだけで、ひっそりと『ねじまき鳥クロニクル』を読み終えた。たぶんこの小説をすべて通して読んだのは卒論以来だ。最後の「208号室」での戦いの後、「笠原メイ」が月明かりの中でどういうわけか裸になるところで思わず涙がこぼれた。なるほど、とぼくは思った。きっとこの場面はそういう効果をもたらすものとして書かれていたのだ。4年前、ぼくはそんなところで泣かなかったと思う。今回ぼくはものすごくこの小説に感動したといっていい。酔っぱらっていた、ということもあるかもしれないけれど。こんなに良かったっけ?というのが率直な印象だ。

『ねじまき鳥クロニクル』は村上春樹の中でいちばん長い小説である、という事実以上に、ぼくにとっては読み返す気の起きない小説である。5年に一回くらいしか読み返す気がしない。なんというか、心理的に。特に第三部がそうなのだ。ちょっとやそっとでは近寄りがたい存在なのだ。気合いを入れなければとても読み通すことができないのだ。でもぼくはきっとこの先の人生において、何度もこの小説を読み返すことだろうと思う。

それからぼくは眠りにつき、昼の3時に起きた。ほどなくして実家へ帰る。立川で途中下車し、高島屋で北海道物産展をやっているということなので寄ってみる。つい先日「松本伸介」で取り上げられていた「ドゥーブル・フロマージュ」は残念ながら売り切れだった。が、スープカレーを食べる。きっと近いうちにもっと日常的に食べられるようになるとは思うのだけれど、早いところスープカレーが東京でも日常的に食べられるようになって欲しいものです。それともぼくの知らないところではもう日常的に食べられるようになっているのかもしれないけど、そこのところどうなのでしょう。

夜の8時過ぎになってみんなが集まりはじめる。いまは京都の某Kジマ電気で働いているSさんが東京に帰ってきているので、その彼を囲む会、というわけでもないのだけれど、総勢7人で鍋を囲むことになった。ぼくとしてはNくんと会ったのがほぼ1年ぶりでいちばんひさしぶりだったのだけれど、そのNくんとTくんにいたっては高校卒業以来はじめて顔を合わせるということだった。信じがたいことにそれはほとんど10年ぶりなのだ(これを書いているいま、かなり酔っているので正確な月日を計算できないことをお詫びします)。ちなみに現在唯一の既婚者であるTくんは、実家が隣町であったにもかかわらずぼくの家にやってくるのは初めてで、時の流れというものは何とも不思議な場所に人々を運んでゆくものだなあとつくづくぼくは感慨深い思いにとらわれずにはいられなかった。高校2年、3年と同じクラスだったのだけれどTくんはぼくの家に来たことはなかった。でも高校を卒業して10年経ってからTくんはぼくの家にやって来たのだ。そしてぼくの家の台所で鍋のための野菜を包丁で切ったりしているのだ。

もし家というものがどれだけたくさんの人をそこに招き入れたのか、という尺度でその善し悪しが計られるのだとしたら、ぼくの実家はかなりいい線をいっているはずだ、とぼくは酔った頭で考えた。考えてみたら、ぼくの家にはほとんどいつでも家族以外の人間がいた。一時期、というよりも長いあいだ、ぼくの家は極めて都合のいい溜まり場で、それこそたくさんの人たちがやって来ては去っていった。友達の友達や、友達の兄弟や恋人、友達の友達の友達、そのほかよくわからない人たちまでぼくの家に泊まっていったりした。ぼくは自分でも不思議なくらい、そういうのに向いている人間であるようだった。普段はとてもそんな人間ではないのだけれど、一度酔っぱらってしまうと、ぼくには限りなく歓待の精神が宿るようだった。ぼくはたぶん彼らが気を遣って欲しくない以上には気を遣わない人間だった。ぼくはもう二度と会うことはない人たちと不思議な因縁で巡り会い、いっしょに酒を飲み、彼らが眠りにつくのを確かめてから、朝になると彼らを送り出した。「またね」といってまぶしい朝の光の中に送り出した。彼らの多くはもう二度とその姿を現すことはなかった。彼らはいったいいまどこでどうしているのだろう。そう思うとぼくは不思議な気持ちになる。とても不思議な気持ちになる。彼らはいまでもここにいてもいいはずだった。でもここにはもう二度と戻って来ることはないのだ。

そういう意味では、ぼくにとって、何度も会えることが近い将来において一応は確定している人たち、というのはとても貴重な存在だ。ぼくは恐いのだ。いつその人に会えなくなってしまうのか、ぼくには決めることができないからだ。この世界では誰が誰にいつ会えなくなってしまうのか、わかったものではないのだ。ぼくは何度もそういうのを経験してきたのだ。

飲み会の場は、よく煮えたことを示す水蒸気が鍋のふたに開けられた小さな穴から吹き出すように、どう考えても親密な空気を部屋中に醸しだしていて、それは酔った頭の醸し出すぼくだけの錯覚なのかもしれなかったけれど、我々の人生の目的とはもしかしたらこういう場をところどころで設けることなのかもしれない、と思えるほど、そこには親密な空気が醸し出されていた。ぼくはなんというか密かに感動してしまっていて、いつもよりことば少なだったかもしれない。ぼくは年を重ねるにつれて段々ことば少なになっていくような気がする。そういう意味ではぼくは、ぼくが望む以上のものをすでに偶然手に入れていて、いつになったらこの恩返しをみんなに対してできるのだろうと不安になるくらいなのだ。Nくんはアイスクリームの詰め合わせを買ってきてくれた。Tくんは世界各国のビールを持ってきてくれた。ぼくとYくんは世界各国のビールを順番に飲み比べて批評してみた。これはジンジャーエール、これは駄菓子、これはワインというように。外国のビールは総じて甘いのが多かった。中にはなかなか美味しいのもあったし、もう二度と飲みたくはないものもあった。そしてアルコール度数の高いものが多かった。ぼくは顔の筋肉がおかしくなるくらい笑い転げた。これが高校に3年間通って得ることができたものなのだとしたら、それは十分に余りあるものだという気がした。

そしてやがて日付が変わる少し前、Tくんの奥さんがTくんを迎えに来て、YくんとYくんの恋人のKちゃんはTくんの奥さんの運転する車で最寄りの駅まで送ってもらい三鷹へと帰っていき、部屋にはぼくとNくんと京都から来たSさんとYくんが残されることになった。ぼくはそこでも感動してしまった。Tくんの奥さんはSさんの中学の後輩で、ふたりは面識はなかったが、とにかくそういう事実が浮き彫りになったり、一度も行ったことのない場所にカーナビの力を借りてではあるにせよ、酔っぱらった夫を車で迎えに来る女の子、というのにぼくは感動してしまった。ぼくたちは帰る人たちを見送り、帰らない人たちでまたぼくの家に戻った。

Yくんはいつも通りソファの上で眠りはじめ、その日スノボに行って帰ってきた(YくんとSさんとHくんとKちゃんはスノボ帰りだったのだ)ときの運転手であるSさんも眠りにつき(なんとSさんはこの二日で日本国内を1000キロ近く運転していた)、Nくんはそれを確認すると安心したように帰って行った。そしてぼくは自分の部屋に行って眠りについた。亀が蟻のように地面に繁栄している世界の夢を見た。ぼくが寝ているあいだにYくんとSさんはそれぞれの家に帰っていったようだった。そのようにしてぼくたちの飲み会は終わった。

ぼくは昼過ぎに目覚め、みんなで過ごした部屋を一通り片づけた。そこにはいつものように「なにか」が残っていた。その「なにか」のことを、ぼくは誰にも教えるつもりはない。それはみんなが帰った後、必ずそこに残るものであり、これはみんなが集まる部屋を提供するものの特権だといっていいだろう。ぼくはいつもみんなが帰った後でその「なにか」を回収した。そしてそれを子細に眺め、ポケットの中にしまうのだ。

diary 2005,01,29,Saturday
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レクター博士

2005,01,28,Friday

今日はモスバーガーに行ったんですが、って今日だけじゃなくてしょっちゅうぼくはモスに行ってるんですけど、いやあ、世の中には変わった人がいるもんですね。つくづく驚かされます。今日はですね、すごく変わった人を見ましたよ。その人は、すごーく、すごーく、変な人でした。というか、もう、ちょっと恐怖すら感じましたよね、正直いって。

まあはじめからいやな予感はしていたんですよ。ぼくはもうなんだか隣の席に人が来ただけで最近はすごくなんというのか、警戒するというか「もう来るな!」という感じなのですね。女の人ならまだいいんですけど、男が来たりするともう「帰れ!」と思ってしまいます。「お前が帰らないんだったら俺が帰る!」とすら思います。まあ帰りませんけどね、思うだけで。

その人はたぶん50過ぎのおっさんでした。ぼくはもうさっそくいやだなあと思いました。変な人が隣に来ちゃったなあと。なんか変なんですよね。隣に人が来た。それも男。しかもおっさん。ってだけでもうぼくの嫌悪感を喚起するに十分なのですが、そういう諸条件を超えた「変さ」みたいなのがそこはかとなく漂っているのです。そういう直感みたいなものって、それほど間違ってないことが多いです。なにか言語化できない、おかしな気配みたいなものを人間って感じ取っているんですよね、きっと。ああ、危ないのが来たぞ、気をつけろ、というわけです。まあ酷な言い方ではあるかもしれないけれど、生存戦略上、これは致し方のないことです。あるいは最終的にはその直感は的はずれである可能性だってあります。でもまずは人を警戒させるなにかが、そのおっさんにはあったわけです。

ぼくはオニポテとマスタードチキンバーガーを食べ終えて、コーヒーを飲みながら本を読んでいました。でもその人が隣に座ってからはその人のことが気になってもう一行も読み進められません。その人のテーブルの上にはプラスチックの番号札が乗っています。それをなにかとても物珍しそうに子細に眺めると、次に今度はこれまたテーブルに載っている紙ナプキンを入れておくやつを手にとって眺めはじめました。モスのお客さんというのはまあだいたいセットメニューを頼む人が多いのですね。そうすると必然的にテーブルの上には番号札と飲み物が置かれることになるわけです。ハンバーガーとかは時間がかかるので後から持ってきてくれるわけです。番号札を頼りにして。でもその人のテーブルは番号札だけだった。だからぼくは「この人はいったいなにを頼んだのだろう」と思っていたのです。

するとそこへ彼が頼んだものが運ばれてきました。思わず凝視せずにはいられませんでした。そしてぼくは何度も目を疑わなければならなかった。トレーの上には、(1)フライドポテトL(2)コーンポタージュスープ。まあここまではいいとしましょうよ。だがしかし!(3)ミネストローネ(4)おしるこが乗っていたのです。飲み物ばっかかい!

いやね、別にいけないとかいってるわけじゃないんですよね。なにを頼んで、なにを食べようと(なにを飲もうと)それは本人の自由ですから。当たり前の話ですけど。でもですね、その組み合わせはちょっと異様でした、はっきりいって。こんなおかしな組み合わせは見たことがない。ぼくの世界にはそういった組み合わせのオーダーは存在していないのです。あと100万回モスに行ってもそんな注文は思いつきもしないでしょう。

それにしてもモスの商品の組み合わせだけで、こんなにも異様なムードを漂わすことができるのですね。ぼくは驚きと共に、ちょっぴり感心せずにはいられませんでした。なんだか料理を前にしているその人の佇まいが『ハンニバル』のレクター博士みたいなんですよね。赤と黄色と黒、3種類の液体を使ってなんかの実験がはじまりそうな雰囲気でした。ポテトはかき混ぜ棒にでも使うのでしょうか?

さて、ぼくの予想を大幅に逸脱して、レクター博士が最初に手をつけたのは「おしるこ」でした。ほとんどありえませんね、これ。そしてどういうわけか3つの飲み物のためにひとつずつ付いているスプーンを、博士は「おしるこ」のためにふたつも使っていました。意味がわかりませんね、これ。

でね、こんなに人の食事風景を観察してる俺もどうなんだと思うのですが、おしるこ、ミネストローネ、おしるこ、ミネストローネみたいな感じで食べてるわけです。ふつうに(まさか、おいしいのでしょうか?)。そしてそれをときおりコーンポタージュスープで流し込むわけです。「ははあ、博士にとってはおしることミネストローネが主食でコーンポタージュスープが飲み物に当たるわけなのですね」とクラリス=ぼくが分析していた矢先にそれは起こりました。コーンポタージュスープの中にポテトを入れたのです!そしてやおら立ち上がるとレジの方に行き、さらなる飲み物である「水」をもらって帰ってきました。これで4種類の液体がテーブルの上に並んだことになります。「なるほど。飲み物に当たるものがなくなってしまったことに気づかれたのですね」とぼく=クラリスは思いました。「だから純粋な飲み物としての水をもらってきたのですね」と。

結局、博士はスープに浸したポテトをすべて食べ、すべての液体を余すことなく飲み干すと、すぐさま立ち上がり帰って行きました。「ああ助かった」とぼくがほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、博士はすぐに店内に戻ってきた。まるでゾンビ映画のように。そして博士は店員さんにもう一杯水をもらい、それを一気に飲み干すと今度こそ本当に帰って行ったのです。

と、まあ、それだけのことです。でも不思議ですね。なんとなくなその人の佇まいと、ただなんてことのない商品の組み合わせが、こんなにも恐怖心をかき立てるのです。ぼくはほんとに恐くてたまりませんでした。早く食べ終わってくれ、とただそれだけを願っていた。もう本を読むどころの話ではありませんよね。恐かったなぁ…。

diary 2005,01,28,Friday
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古本屋巡り

2005,01,27,Thursday

大山で古本屋巡り。稲葉振一郎『経済学という教養』、ドン・デリーロ『コズモポリス』、レイモンド・カーバー『頼むから静かにしてくれ』、『大聖堂』、『愛について語るときに我々の語ること』。銀だこでたこ焼きを買って帰る。夜、おでん。

book 2005,01,27,Thursday
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『ウォーク・ドント・ラン』

2005,01,24,Monday

村上春樹+村上龍『ウォーク・ドント・ラン』(一冊持ってるけど)、ウィリアム・バロウズ『シティーズ・オブ・ザ・レッド・ナイト』。今年に入ってからもう20冊も本を買ってる。

book 2005,01,24,Monday
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煮込みハンバーグなんたら

2005,01,22,Saturday

ティーヌン。
内田樹『寝ながら学べる構造主義』、中沢新一『対称性人類学』。
HMVでLemon Jelly『'64-'95』、Miles Davis『'Round About Midnight』『Sketches of Spain』『STEAMIN'』『COOKIN'』。
大戸屋で煮込みハンバーグなんたらと生ビール。BECKER'Sで生ビール2杯。

diary 2005,01,22,Saturday
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最終講義

2005,01,20,Thursday

東大、最終講義はすごかった。ちょっとことばにできないくらい。
リブロにて、内田樹『死と身体』、ジャック・デリダ『アデュー』、『死を与える』、カート・ヴォネガット『プレイヤー・ピアノ』新装版。

book 2005,01,20,Thursday
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『ビッグ・フィッシュ』

2005,01,18,Tuesday

『ビッグ・フィッシュ』をDVDで。

movie 2005,01,18,Tuesday
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『真珠の耳飾りの少女』

2005,01,17,Monday

『真珠の耳飾りの少女』をDVDで。途中で寝たがスカーレット・ヨハンソンはかわいい。

movie 2005,01,17,Monday
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『となり町戦争』

2005,01,16,Sunday

朝の6時まで本を読む。昼ごろ起きて渋谷へ。ブックファーストで三崎亜記『となり町戦争』(サイン本)、高橋源一郎『性交と恋愛にまつわるいくつかの物語』。
「G7」おもしろかった。そのあと打ち上げ。

diary 2005,01,16,Sunday
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ものすごくディセンシー

2005,01,15,Saturday

6時半に起きて読書。『他者と死者』をとりあえず一回通しで読み終えた。内田さんはひとことでいうと、ものすごくディセンシーなものの考え方をする人だなあとおもう。とおもって「ディセンシー」の意味を間違って覚えていて間違って使ってたらいやなので一応「ディセンシー」で検索してみたら内田さんのブログがいちばん上だった!なんという偶然。

『KILL BILL2』をやっと観る。タランティーノはアホだ。あの、生きたまま棺に入れられて埋められるの、恐いなあ。昔ああいう夢をよく見たことをおもいだしてしまった。ひとことでいうとmurderがmotherになる話だね、これ。

そしてぜんぜん関係ないけど、今年が平成何年なのか今日はじめて考えた。今年は平成17年(だよね?)です、みたいなことをいってるのを一回もきいてないし見てない気がする。

diary 2005,01,15,Saturday
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どう考えてもパスタが

2005,01,14,Friday

どうも松屋ですぐ隣の席に座られると落ち着かない。
夜、『マーサの幸せレシピ』を観た。ことごとく料理がおいしそう。どう考えてもパスタが食べたくなる。
深夜、伊坂幸太郎『チルドレン』を読み終える。これシリーズ化して欲しいなあ。

movie 2005,01,14,Friday
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存在の真骨頂

2005,01,13,Thursday

昼過ぎにいったんグリを部屋に入れるために起きたがなんとなくもう一回寝てしまい起きたら4時だったので学校に行けなかった。仕方ないので仕事する。途中で阿部和重、芥川賞受賞のニュースを知る。なにをいまさら、という感じだが、三度のノミネートの末ということや、デビュー10年でもらう、というところがやはり阿部和重という存在の真骨頂ともいえるのではなかろうか。名誉さえも脱臼せずにはおかない、というか。直木賞は角田光代で、今回はまあ順当ともいえる。でも芥川賞って新人賞じゃなかったっけ?『プラスチック・ソウル』はいつ単行本化するのだ?

一段落したところでTSUTAYAに行き100s『OZ』を(最後の一枚だった)。『OZ』だが、半透明の膜で密閉された部屋の中にいる感じ。日本語なのにもはや日本語にきこえないというところが実にいまの気分にぴったりくる。もううるさいんだもん。奥田民生とかさ。

diary 2005,01,13,Thursday
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『ドラッグストアガール』

2005,01,12,Wednesday

お昼頃、仕事の素材がやっと届く。朝の8時まで本を読んでいたが、起きてすぐ作業に取りかかる。夕方いったん2時間寝て、ふたたび作業。松屋でデミたまハンバーグ定食を買ってきてもらう。
DVDで『ドラッグストアガール』を観る。これは映画祭で観たがもう一回。グリコは途中で寝てしまったがそのまま観ることにし、特典映像も余すとこなくすべて観て、あろうことかコメンタリー(本木監督と田中麗奈が映画に合わせてしゃべってるやつ)まで通して観てしまう。もしかしたら本当に好きな女優は田中麗奈なのかもしれない。なんとなくそんな気はしていたが。終わったのは朝の5時で、それから伊坂幸太郎の『チルドレン』を読み始めてしまう。直木賞の対象作品。朝の8時頃やっと寝る。

movie 2005,01,12,Wednesday
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50年前の文芸誌

2005,01,11,Tuesday

リブロにて『文學界』、『新潮』、内田樹『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』。

喫茶店で買ったばかりの本をいざ読もうと開いた242ページ、高橋源一郎「ニッポンの小説」第二回の最初のページに、これも買ったばかりの一口目のコーヒーをどばっとこぼし、『文學界』は一気にそこだけ50年前の文芸誌みたいになった。ちょっといい感じ。

深夜から朝にかけて梨木香歩『裏庭』を読んだ。以外と『ねじまき鳥クロニクル』なんかと合わせて読んでみるといいのかもしれない。祖母、母、娘の三世代に渡る冒険ファンタジーで、『千と千尋』と合わせて読んでもいいかも。

『他者と死者』はあまりにも、なんというか、すごいことが書かれている本のような気がするので(内田さんの本はぼくにとってはどれもそうなのだが)、ちょっとずつ読むことにする。そしてこの本はきっと何度も読み返すに違いないという予感。

book 2005,01,11,Tuesday
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『オニババ化する女たち』

2005,01,09,Sunday

ブックオフにて、三砂ちづる『オニババ化する女たち』。

book 2005,01,09,Sunday
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350円均一セール

2005,01,08,Saturday

ブックオフ単行本350円均一セールにて、E.W.サイード『戦争とプロパガンダ1~3』、伊坂幸太郎『チルドレン』、トールモー・ハウゲン『月の石』、村上春樹『Sydney!』。『Sydney!』はなぜか読んでいなかった。

book 2005,01,08,Saturday
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一日ずっとパン

2005,01,06,Thursday

ジーン・ウルフ『ケルベロス第五の首』読了。
一日ずっとパンばっか食べていた。

book 2005,01,06,Thursday
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いかにも変人

2005,01,05,Wednesday

ケンタッキーフライドチキンを食す。
夜、「夏目家の食卓」を観る。漱石がいかにも変人っぽくってよかった。

TV 2005,01,05,Wednesday
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凶がいっぱい

2005,01,04,Tuesday

朝から雑煮で餅を9個食べ、浅草へ。さすがに胃がもたれる。雪が凍ってつるつるだ。というか靴の裏がつるつるなんだな。今年は靴を買わないと。えーと、今年は靴を買います。2005年の目標。

浅草は人でいっぱいでした。なんとなく人がいっぱいとはおもっていなかったのでびっくりです。新年早々遅れてくるグリコを待つ。30分も!「ちょっと遅れます。ごめんなさい」と電話をかけたのはぼくのほうだったのですが。それに輪をかけて遅れてくるとはいったいどういうことだろうか。今年は何分待たされるか、全部記録しておくことにしよう。おみくじを引いたら凶だったのでなかったことにしてもう一回引いたら吉だった。そのおみくじの前ではみんな「凶だー」とかいっていて、凶がいっぱい入ってるみたいでした。それからなぜか水上バスに乗り浜離宮に行きまして写真をバシバシ撮り、歩いて銀座まで出て文明堂のカフェでカステラなど食べ、それからティーヌンでトムヤムラーメンを食べて帰りました。

diary 2005,01,04,Tuesday
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夏からずっと開いていた

2005,01,03,Monday

読書始めは、大江健三郎『むしろ老人の愚行が聞きたい』。

部屋が寒くってですね、やっぱこっちのほうは寒いんだなあ、同じ東京でもずいぶん違うもんだなあ、と納得していたのですが、あまりにも寒いので、もしかして、とおもい確認してみたらやっぱり窓が開いていました。サッシがちゃんと閉まってないのに鍵だけがかかった状態になっていたのでした。そんなの寒いに決まってるじゃん、とおもった明け方。滞在四日目ではじめてきづく、というのもどうかとおもう。というか夏からずっと開いていた模様、というのもどうかと。雑煮で餅4個。

diary 2005,01,03,Monday
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雑煮で餅14個

2005,01,02,Sunday

雑煮で餅14個。

food 2005,01,02,Sunday
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新年の感慨

2005,01,01,Saturday

雑煮で餅を8個食べる。実家にて。三が日で50個は食べるつもりです。
年賀状が一枚もなし、なのは毎年のこと(店とかからも来ない)だけど、新年の感慨がこんなにないのははじめてのこととおもう。いったいどうしたことか。

diary 2005,01,01,Saturday
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