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ミュージカル・バトン

2005,06,28,Tuesday

チェアマンさんからちょっと前に渡されたミュージカル・バトンを持ってそのまま生活していたら、バイクさんからもバトンを渡されたのでバトンが2本になってしまい、これでは両手がふさがりごはんが食べられないので書きます。

●Total volume of music files on my computer:(今コンピュータに入ってる音楽ファイルの容量)
iTunesの表示は3834曲、13.4日、17.65GB

●Song playing right now:(今聞いている曲)
・The Rolling Stones『Loving Cup』

●The last CD I bought(最後に買ったCD)
・Lily Chou-Chou『呼吸』
salyuが好きになったので、さかのぼって購入。ってことはよっぽどのことだなあ。

●Five songs(tunes) I listen to a lot, or that mean a lot to me:(よく聞く、または特別な思い入れのある5曲)
ああ難しい。5曲なんて選べないよー。

・中村一義 『永遠なるもの』”金字塔”
「金字塔」は、たぶん今まででいちばんたくさん聴いたアルバム。だから本当は全曲に思い入れがあります。とにかく、これはあんまりいわれないことですが、いえ、もしかしたらいくらでもいわれていることかもしれませんが、中村一義の歌はいっしょに歌うと本当に気持ちがよいのです。そして、こんなもの歌えるわけがない、といつも愕然とさせられます。でもがんばって歌う。mp3ではあんまり聴かない。実家に帰ったとき60キロのでかいスピーカーで聴きます。ビートルズの愛の純化。

・Takagi Masakatsu 『House Of Time』”Come And Play In Our Backyard”
最近salyuにその座を明け渡したが、長きにわたりiTunesトップ25の1位にいた曲。雨の日に1曲リピートで延々と流す感じ。隣の家の憧れのお姉さんの練習する遠いピアノを、雨のしずく流れ落ちる自室の窓におでこを押しつけ聴いてる小学生男子。吐息で曇る窓ガラス。という情景が。浮かんでは。消える。浮かんでは。消える。退屈・倦怠感と、無垢・瑞々しさの同居。夢の中から漏れ出した音の響き。東アジアの雨期。

・七尾旅人 全曲
やっぱり選べない。ので全曲。銀河系詩人。死滅する季節に胎動する物語群はメロディという方舟に乗ってどこまでも生き長らえるか?

・THE BLUE HEARTS 『TOO MUCH PAIN』
美しすぎる泥だらけ魂の夕べ。金色ハーモニカの調べ。あなたの言葉が、まるで旋律のように頭の中で鳴っている。操車場。鉄錆色の夕焼け。ビードロの夜。

・Date Course Pentagon Royal Garden 『Mirror Balls』
ミラーボールを発明した人にはノーベル平和賞をあげるべきだ。と菊地さんは仰っていましたが、『Mirror Balls』という曲を作った人にもなにかあげるべき。ステージ上でのみ確保されるワーカホリックの安息。万華鏡のような、ダンスフロアの朝焼け。

●Five people to whom I'm passing the baton (バトンを渡す5人)
・マイルス・デューイ・デイヴィスⅢ世さん
・ヨハン・セバスチャン・バッハさん
・ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトさん
・リチャード・ブローティガンさん
・宮沢賢治さん

music 2005,06,28,Tuesday
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人間が堕落して

2005,06,14,Tuesday

夕方までにほとんどの作業を終わらせ、渋谷HMVにsalyuのファーストアルバム『landmark』を買いに行く。インストアイベントの整理券を貰うため。その後、四ッ谷へ移動し、念願の「たん焼 忍」へ行く。ゆでたん。たんシチュー。焼たん。「ああ、確かにおいしいなあ。ゆでたん、すごいなあ」と「駄目だこんなもの食べたら。人間が堕落してしまう」とのあいだをぼくは静かに揺れ動く。といいながらゆでたんを二皿。拙者、明日からしばらく絶食することにいたす。帰って「離婚弁護士」を見てすぐ寝る。電気も消せなかった。夜中にピアノの上からものが落ちてきて目が覚める。グリが何かをやらかしたのだった。

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バナナとカロリーメイト

2005,06,13,Monday

ブックオフで「THE BOOM」のビデオ2本。安かったので。昔欲しかったけど買えなかったやつ。バナナとカロリーメイトを食べて仕事。暑い。バナナがおいしすぎる。バナナはスィートスポットという黒い斑点が全体に出てきてから食べた方が栄養価が高くなるんだって。たしかに熟成、という感じでおいしい。しかし忙しいなあ。深夜2時就寝。

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死ぬほどビーチボーイズを

2005,06,11,Saturday

14時間寝た。何年ぶりのことだろうか。昔は14時間はおろか、18時間とか24時間とか3年4ヶ月とか寝ていたのだ。ここ1年くらいずっと二重になっていた右目さんの瞼さんが奥二重さんに戻って、十分な睡眠が取れていないから二重さんになっていたのだなあと知る。というか、寝過ぎで奥二重になっていたのだな。あいつは。と書いていたら、急に二重になった。自然と。割と不思議。もう日曜日の朝10時。暑いから、死ぬほどビーチボーイズを。聴く。

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各駅停車ワーキング

2005,06,10,Friday

松屋デミたまハンバーグ定食。雨の中。じっとり。それ以外はぼくは一日部屋でじっとずっと仕事。レイニーデイズ集中力。研ぎ澄まされていない種類の。各駅停車ワーキング。全身にみなぎるぜ倦怠感。痺れの手袋をはめているみたいだよ。手に。

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オフィスで朝

2005,06,09,Thursday

忙しすぎて先月の文芸誌をほとんど読めていないのに、もう新しいのが出る。というか出てる。買いに行かなきゃ。な時期になっていることに気づき、愕然とするぜ。木曜日。この一月ほど起きてるときはほとんどずっと仕事をしてるので、本を読む暇がまったくない。だから必然的に睡眠を削って読むことになるわけで、どんどん睡眠時間が減少し、やがてゼロに到達し、終いにはマイナスになるであろう。昨日はマイナス3時間しか寝てませんよ~。とオフィスで朝、同僚にいったりするであろう。オフィスなぞないし、同僚なぞいないけれども。タッチタイピング孤独。マウス・オブ・テレパシー。松屋スープカレー。辛い。何かの加減で喉の、柔な部分に、柔じゃないスパイスが付着し、咳き込み、カウンターの向こうに飯粒を時速200キロで吐き飛ばしそうになる深夜4時の。喉の痛み。13種類のスパイス・パラダイス。イン・パインハウス。

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死んでからが人生

2005,06,08,Wednesday

起きる。昼の3時に。仮眠しよう2時間ほど。仮眠仮眠。と思って寝たらそれは仮眠ではなかった。6時間も寝てもうた。それはもう本眠である。仮眠は、そうだな、せめて3時間以内だと、ぼくは思うよ。

夜7時からソウルセットの新譜のリリースパーティが代官山である。開かれる。催される。とのことでチェアマンからありがたいお誘いを受けた。というと、なにかソウルセット関係者の偉い人。もしくはサッカー関係者の偉い人から招待されたみたいに聞こえるが、チェアマンは友だちのあだ名です。というわけで7時から代官山で。ということは6時くらいまでには新しい企画のラフデザインをざっくりなんとかしておかなければならない。なぜなら明日見せなくちゃいけないから。ので、ざっくりなんとかした。と書くといかにも簡単そうだが、結構たいへん。そしてバナナを食べて家を出た。バナナってすごいよなあ。すぐ食べられて、しかも栄養。という感じがするよ。果物なのにだよ。あの皮をむくときのわずかな時間と期待感のバランスが絶妙。猿でなくとも大満足の果実。太古の昔から。といった趣き。なにか神妙な気持ちになるよ。皮むくときって。これを失敗したら大変なことになるよ。とでもいうみたいに。そしてバナナってのは部屋の中で食べてるのに、外にいるみたいな気持ちになります。ロビンソン・クルーソーみたいな。さらにバナナといえばトマス・ピンチョンの『重力の虹』で、あの小説にはさまざまなバナナ料理が出てきて、ぼくはバナナを食べるたびにあの小説のことを思う。うっすらと。〈海賊〉の〈バナナ朝食〉だ。そしてぼくの頭の中では勝手にトマス・ピンチョンがガルシア・マルケスにバナナ料理について質問しているところが浮かぶのだが、それは『重力の虹』と『百年の孤独』を読んだ時期が近かったためだろう。とはいえ『重力の虹』は何度読み始めても上巻の途中で挫折してしまうので、いまだなお読み終えていない。というのは、これ、あまりにもよくある話。最初の100ページくらいを、だから何度も読んで、その辺だけすごくよく覚えている。最近もまた読み始めてしまった。

そんなわけでチェアマンと代官山UNITへ。どうも代官山は慣れていない。というか、街の名前が怖い。というか、お代官様になにか嫌な思い出がある。のか知らないが、緊張する。ここはお前の来るところではない。許可証が必要だよ。見せなさい。ないなら、帰りなさい。といわれているような気がする。とりあえずその着ているものを脱ぎなさい。そんなものを着ているくらいなら何も着ていない方がまだましだからねえ。お前鏡を見たことがあるのか?そんな格好でよくここまで来れたねえ。まったく賞賛に値するよ。あはは。ほら。早く服を脱ぎなさいったら。脱げ!脱ぎな!このうすらとんかち!

まずは北朝鮮戦をみんなで観戦。無冠客慈愛。無観客試合。ボールを蹴る音がよく聞こえる。ような気がする。試合の途中でビールを買いに行ったんだけど、ふたり分のビールを両手に持って、暗い中、床に座っている人を踏まないように気をつけ、頭の上からビールを注いでしまわないようにと気をつけながら、無事に元の位置に戻ると、こんなことは人間にしかできまい。という勝ち誇ったような気持ちになった。

というわけで日本代表は北朝鮮に勝ち、いよいよライブ開始。懐かしい曲もやったはず。というのはソウルセットのCDは昔、全部売ってしまい、手元には一枚も残っていないからだ。なんで売ったのかな。自分でもすっかり忘れていたが調べてみたら実は『PURE LIKE AN ANGEL』から買っていたのだった。1993年。っていうと、高校生か。たぶん95年の『TRIPLE BARREL』までは買っていたんだった。でもそのあと、アルバム3枚しか出してないんだね。CDを売ってしまったことによってそれにまつわる記憶も消去、みたいな感じに自分はずっとなっていて、どうして曲を知っているのかどこか不思議な感じがし、まるで前世の記憶かなにかのようだった。すごくよく知っているような気がするんだけど、この人誰だっけ?みたいな感じ。あるいは、短い時間にビールを4杯飲んで酔っぱらっていた。空きっ腹に。というのも手伝ってのことなのかもしれないが、ものを売ってしまうというのはそういうことなのだなあと思いました。脳の一部を切除したみたいだ。無線LAN経由でハードディスクにデータを保存するみたいに、人はものに記憶を託し、いつでも好きなときに呼び出している。のだ。遠隔操作的に。たとえば売ってしまって部屋にないことと、いまでも部屋のどこかにはあるだろうけどどこにあるかはわからない、ということには雲泥の差があって、売ってしまうと、思い出すにしても「そういえばあのCDは売っちゃったっけ」くらいのものになってしまうようだ。死者を埋葬し、墓を作る。という人類の発明は、だからものすごいなあ。墓場に行けば墓がある。というわけだ。人間の記憶システムはどこか唯物論的なところがある。あるの?あるのかも?あるのかも。うん。あるのかも。墓とは記憶の外部化、外部の記憶装置に他ならない。というわけで人間の作り出すあらゆる「もの」は墓標である。という立論で昔、論文を書いたのだが未完。小説とは墓碑銘。生者が聴きとる死者の悲鳴。反響する耳鳴りとの対話。とかいう感じの。死ぬまでには書くつもり。死ぬまでには死ぬつもり。という墓碑銘にしてもらおうかな。俺は。だから生きるということは、死んだあとで、自分の墓の前で、自分の墓を訪れてくれる人に、どんな風に思われるのか、思われたいのか、思われたくないのか、ってゆうことで、「死んでからが人生なんだよね」という『カンバセーションピース』の主人公のことばはそういうことだ。死んでからの方が、だって長いものね。苔のむすまで。

というわけで、チェアマンとはさらりと別れ、渋谷ティーヌンでひとりトムヤムラーメンを食べて帰宅。2時間ほど仮眠。3時半に起きて、「wanted!」を聴きながら作業。水曜深夜3時からのラジオをまだ一度も聴き逃していない。とは、いったいどういった生活なのだろうか。現在、どういうわけか、ラジオを週に4番組、かかさず聴いております。こんなことは中学生以来だ。salyuのラジオ2本。前述の菊地成孔+大谷能生の「水曜WANTED!」。あとはダーリンハニーの「サタグラ」。

diary 2005,06,08,Wednesday
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バナナ、ポテトチップ、ヨーグルト

2005,06,07,Tuesday

朝5時起床。10時、有楽町のとある会社で打ち合わせ。あっというまに終わり、無印カフェでお茶を飲み、軽く食事。おいしいパン。コーヒー。グリコを見送り、銀座をぶらぶらし、帰って作業に取りかかる。途中で松屋。スープカレー。スーパーマーケットでバナナ。ポテトチップ。朝の8時まで、バナナ、ポテトチップ、ヨーグルトなどを食べつつ作業し、お腹を壊し、9時就寝。

diary 2005,06,07,Tuesday
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紋切り型の気持ち

2005,06,06,Monday

朝8時就寝。3時に電話で起き、もう一度1時間くらい寝る。バナナを食べて渋谷クアトロへ。スポーツ選手か。おれは。DCPRGのノンストップ3時間越えライブ。でもあっというまに終わってしまった。デートコースのライブはCDやDVDで観ていたけど、やっぱ生はすごすぎた。とんでもない高揚感。天にも昇るような。という紋切り型の気持ち。途中、泣きそうになってびっくりした。

11時までに営業時間が延びたブックファーストで町田康の新刊『浄土』を買って帰る。池袋でグリコと待ち合わせ。ココイチでカレー。2時、就寝。

music 2005,06,06,Monday
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『なんくるない』

2005,06,05,Sunday

夕方5時に起きる。よく寝たなあ。具合があんまりよろしくない。夜、自転車でタイラーメン屋に行く。トムヤムクンラーメン。焼豚炒飯。おいしい。よしもとばななについて話す。よしもとばななは「商店街の人」である。という結論に落ち着いたけど、それはいわなかった。スーパーマーケットでジャワティ。ヨーグルト。深夜、よしもとばなな『なんくるない』読了。表題作の「なんくるない」は、あるポイントを過ぎたところから、これでもかとばかりに畳みかけるような高揚感、幸福感、絶頂感が、もうどこで小説が終わってもおかしくない、という状態で延々と続くのだが、それはいささか過剰であって、小説としては破綻しているだろう。という言い方は小説にとってなんら悪いことではなく、魅力のひとつである。などと思いつつ、あとがきを読んだら、12年いっしょに過ごした愛犬のとの最後の日々を過ごしながら書かれた小説だと書いてあり、なんだかものすごく納得した。

book 2005,06,05,Sunday
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紙芝居のおじさん

2005,06,04,Saturday

夕方5時に起きる。よく寝たなあ。具合があんまりよろしくない。やはり掃除をしたのは、体調が悪くなる前兆だったのだな。昼、魚介とバジルのパスタ。夜、バイクさん来る。カメラを返しに。いっしょにモスへ。そのあと世界のCMのDVD鑑賞。朝まで談笑。写真を見せてもらう。バイクはいつも写真を見せてくれながら、いろんなお話を聞かせてくれる。紙芝居のおじさんみたいだ。

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ごはんを食べるのさえ忘れて

2005,06,03,Friday

松屋。豚焼き肉定食。フエンテでフライドチキン二本。台湾バナナ。青い。牛乳。白い。夕方から本腰を入れて仕事。朝の7時まで。ごはんを食べるのさえ忘れて、夢中で。ときどき音楽に合わせて踊りながら。日本、バーレーンに勝利。朝の8時就寝。

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謝る

2005,06,02,Thursday

朝の9時までかかり、とりあえずできたのでその旨を伝えるメールを送る。寝る。昼過ぎにグリコから電話があり、先方からメールが届いていないといわれた、という。あちゃちゃ。まただ。前もメールが届かなかったのだ。謝る。そして原因を突き止めた。これでもう大丈夫だろう。コンビニのひやしたぬき。サンドイッチなど食す。

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掃除なんてしてる場合ではなかった

2005,06,01,Wednesday

アボカスタジオの掃除。3時間。途中で山のように積み上げられた洋服に気が狂いそうになる。このようにたくさんの洋服を買わせる欲望、そしてたくさんの種類の洋服を身につけたいという願望について、まあここには書かないが、考えつつ、すべて畳んだった。すべて畳んでやった。の意。すべてのボタンをはめて。すべてのジッパーをあげて。ドラッグストアに行き、ウェットティッシュ詰め替え用購入。スーパーマーケットでヨーグルト。ジャワティ。バナナ。六日だと思っていた仕事の締め切りが今日だと突然知らされる夕方。グリコが勘違いしていたようだ。ショック。大あわてでやる。掃除なんてしてる場合ではなかった。

diary 2005,06,01,Wednesday
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『誰も知らない』

2005,06,01,Wednesday

最近、DVDで観直したし、チェアマンさんも日記に感想を書いていたので、そういえば、ぼくも映画館で観たあとに感想を書いたっけなあ、どんなことを書いたっけか。と思い、自分の日記内を検索したところ、そんな感想は存在していなかった。非公開になっていたのだった。なぜなら未完成だったからだった。ですが、せっかくなので未完成ですがのっけます。のっけからのっけとけって話ですがね。へへへ。
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八月二十四日(火)
夜、『誰も知らない』を観に自転車二人乗りでふたつ離れた駅へ。汗だくだ。「てんや」で天丼食べてから映画館へ。映画館って急いでいくと予告が長い。かといってのんびりしてると本編がはじまってる。ような気がするが、たぶん気のせいだ。というわけで『誰も知らない』について書く。なぜならこの映画は観るものになにか考えろと促すような作りになっているように思えるからだ。ある状況が提示されている。だがそれに対する監督の価値判断は基本的に極力控えられている。もちろん圧倒的なまでに「こどもたち」の存在が肯定されていることが収められたフィルムであるのはいうまでもない。じゃなきゃあんなの撮れない。以降ネタバレあり。なものを書きたいと思っているがどうなるかわからない。ネタバレにさえならないかもしれない。というか、ばれて困るようなことなんてあるのだろうか。この世に。えーと。あるかな。ありますね。でもとにかく、ネタバレとかネタバレじゃないとか、本当にどうでもいいと思う。ばらそうと思ってばれてしまうようなネタなんて、映画にとって特に大切なネタじゃないし、そんなことで守られなければならないような映画なんて、もともと観る必要なんてない。ばらされちゃったほうはたまったもんじゃないかもしれないが、そんなこと知るか。ばらされてしまえ。

それはともかく、率直にいってこれは、これというのはこの文章のことだが、『誰も知らない』について書かれた文章ではないかもしれない。だが少なくとも『誰も知らない』に触発されて書かれた文章ではある。というような回りくどいエクスキューズは、これからこの映画を観る人にとってなるべく影響を与えたくない。という配慮に基づいているわけだが、そうであるならば、こんなものを書かなければいいではないか、とあなたは思うだろうか? というこのような偽装された他者への問いに見える自らへの問いは、不意に基本的ななにかを浮かび上がらせてしまう。すなわちぼくは、与えたくない、と同時に与えたいのだ。きっと。見せたくない、と同時に見せたいのだ。おそらく。伝えたくない、と同時に伝えたいのだ。たぶん。

色について書く。この映画は赤に青が混ざり紫になる話である。

まず赤だが、とその前にこれは映画館で一度見ただけの記憶に基づいて書かれているので、もしかしたら大幅な錯誤があるのかもしれないということをはじめに断っておく。そして、これから書かれる文章はあくまでも自分にとって『誰も知らない』はどのような映画だったのか、ということを検証する。という動機に基づいており、基本的にぼくの観た『誰も知らない』とあなたの観た『誰も知らない』は違う映画である。あらゆる芸術がそうであるように。という前提に立つ者によって書かれたものである。ということを強調しておく。

赤。それはもっぱら母親の「けい子」を象徴する色として扱われている。それは「ゆき」が描く「けい子」の服の色の赤であり、「けい子」の左手首に巻かれているアクセサリの赤であり、印象的なエピソードとして描かれるマニキュアの赤だ。そして、かつて歌手としてあともう一歩のところまでいった、というエピソードが語られもする「けい子」、あるいは、そのときのパートナーであった「音楽プロデューサー」である「京子」の父親によって買い与えられたとおぼしき子供用の「KAWAI」の赤いピアノとともに、それら赤は一方的に受け継がれるものとしての〈血〉の色である。

そして一方、「明」が幾度となく利用する公衆電話の扉には赤いグラフィティが描かれており、その文字はあたかも運命の赤い糸が絡まったかのように遠くからは見える(そのシーンの多くは俯瞰、または遠景で捉えられていたのではなかったろうか)。だが一度たりとも電話が「けい子」に繋がることはない。「けい子」の腕に巻かれたアクセサリとしての赤い紐がぶらりと垂れ下がりどこにも結びついていなかったように、母子の結びつきはなかば絶たれているのであって、それはこどもの側からは決して繋がらない糸としての赤なのだ。

したがって、母が娘にマニキュアを塗ることは許されてはいるものの、勝手に「京子」がマニキュアを塗ることは許されていないし、こぼれたマニキュアは床の上でいつまでも消えない〈血〉として、あるいは「京子」の小指の爪の上で、一ヶ月経ってもなお消えない〈血〉として描かれているだろう。その〈血〉の支配下においては、こどもたちは母親のいいつけを頑なに守らざるを得ず、一歩も外へ出はしない。

だがそこに「紗希」がやってくる。「けい子」の支配下にある〈赤い〉部屋に、学校でいじめられ不登校となっている女子中学生の「紗希」を象徴する色である青が混ざりはじめるころ、こどもたちは母親の禁止のことばが失効したのだ、とでもいわんばかりに、外の世界へと一斉に飛び出してゆく。

一般的にいってブルーとは、いうまでもないことだがあのブルーのことだ。それは広く憂鬱一般を指す色であり、この社会で不本意に虐げられたものが一様に帯びる種類の色でもあるだろう。と同時に、それはエスカレートしたいじめによって象徴的に殺された「紗希」の、血の失われた身体の色でもあるかもしれない。クラスメイトの手の込んだいじめによって、「紗希」はガード下の駐車場に自分が埋葬されているのを発見する。彼女は学校に通わず、しかも、いわば血も通わない、というわけだ。

青。だがその色は映画の中で決して表立って描かれてはいないように思える。それは潜在的なもので、隠された色である。というのは、「けい子」の去った部屋にはじめて足を踏み入れた「紗希」が床から拾い上げる紫色のクレヨンによって、ようやくそれとわかる、という程度にしか察知することはできないからだ。つまり「福島けい子」が遠ざかるにしたがって、それと入れ替わるようにして「紗希」が4人のこどもたちに近づいてくる。そして「ゆき」の描く「紗希」の服が、「紗希」が床から拾い上げたばかりの紫色で塗られる、ということによって、微かに青が、部屋に、そして映画に導入されるのだ。「ゆき」が、「紗希」の絵をどの色で塗ろうか迷う不思議なシークエンス。あれはいわば超ー能力的な「ブルーの共感」だ。赤に混ざる青としての、紫色のクレヨン。

あるいは、自動販売機で購入されたジュースの缶の色。

あるいは、セーラー服の襟の色。

あるいは、「明」がただひとり、冬に着ていた赤と青のジャケットによってそれを一身に体現していたともいえる。くっきりとわかたれた〈血〉と〈憂鬱〉。〈生〉と〈死〉のあいだを生きていた「明」。

もちろん「けい子」の面影をそこに見いださずにはいられない、「紗希」の援助交際による「明」たちへの援助というエピソードによって、「紗希」は4人から一時、遠ざかることになりはする。しかしながら、いまだなお個人としての生ー性を謳歌してやまない(といっていいだろう)「けい子」と対立する女性としての「紗希」は、再び彼らの元に戻ってくるだろう。

白い服を着た「紗希」と「明」が大きな赤いスーツケースを押して、モノレールに乗る。約束を果たすために空港へと向かうのだ。飛行機を見るために。

やがて紫色の夜明けがやってくる。

movie 2005,06,01,Wednesday
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