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同じ太陽を

2005 05,23,Monday

遠くから電話がかかってくる。

2週間ほど、ひとりでぶらりとヨーロッパを旅行していたNくんからの電話。スペインからだ。へえ。スペインかあ。とぼくは思う。こないだはたしかローマで野宿したっていってたっけ。ローマから掲示板に書きこみがあったのだ。あれからスペインに行ったんだ。とぼくは漠然と思う。イタリアとスペインの位置関係がぜんぜんわからないのだ。そして携帯電話のディスプレイに表示された「通知不可能」の文字や、まるでぼくが「もしもし」といったことによって電話が切れてしまっているみたいなタイミングで何度出てもすぐに切れてしまうこと、それでも繰り返しかかってくることの理由が一挙に判明した。なるほど。スペインか。

ぼくはそのときスーパーマーケットで牛乳とバナナを買って外に出たところだった。ジャワティは売り切れで、がっかりだった。一瞬、店が取扱をやめたのかと思って、ぼくは焦った。焦ったのは実にひさしぶりのことだった。またしても。マイドリンクを。失う。のか?と思って、一瞬、世界を呪いたくなったけれど、よく見るとまだ棚には値札が残っていたので、きっと売り切れてるだけだろう、という真っ当な結論に落ち着いたのだった。焦りすぎだ。この早とちりめ。でも正直ジャワティがそんなに売れてるなんて驚きだった。まさか売り切れるなんてことはないだろうと高を括っていたのだ。

電話はたしかにぷつぷつと回線が途切れるようで、なおかつ声は不鮮明。それは電波の悪さではなく、物理的な遠さを思わせた。でもスペインからどうやったらぼくのこの携帯電話に電話をかけられるのか、ぼくにはさっぱりわからない。というか、どうやったらスペインに行けるんだろうな。スペインってどこだっけ?イベリア半島だっけ?イベリア半島ってどこだっけ?とぼくは思う。そして耳を澄ませる。

「これから帰るところなんだけど、いま、そっちはもう日は暮れちゃった?」とNくんはいう。そういわれて、ぼくは咄嗟に答えることができなくて困った。「日が暮れる」ということばの意味が急にわからなくなったのだ。日が暮れるってなんだっけ。とぼくは頭の中で考える。空を見上げて。なんだかバカみたいだけれど。日が暮れる。それは太陽が沈んで夜になることだ。別になにか他のことを意味する慣用句ではない。えーと。いまはまだ夜じゃない。でも昼でもないよな。これ、なんていうんだっけ……夕方か。夕方は、日が暮れている、の範囲内なのだろうか?

夕方。

でもそのことばが電話の向こうのスペインに通じることばなのかどうか、どうしても確信が持てなくなってしまって、ぼくは口ごもる。果たして夕方というものは日が暮れているのか、暮れていないのか。あるいは暮れかけている、かな。えーと。

「えーと。日は暮れてないよ。まだちょっと明るい。けど……もう少しで日が暮れるところ、かな」とぼくは答える。「でもどうして?」
「太陽は出てる?」
「出てない。こっちは曇ってるの。でもどうして?」

Nくんは、スペインと東京で、同じ時間に太陽を見たかったみたいだった。同じ太陽を。それぞれの地点から。それで電話をかけてきてくれたのだ。でも日本は、というか東京はあいにくの曇り空で、ぼくのいるところからは太陽を見ることができなかった。残念ながら。東京が曇っていることが、なんだかぼくの責任みたいに思えてきて、せっかくスペインから電話をかけてきてくれたのに曇っててごめん、という気分にぼくはなる。もしぼくが女の子で、Nくんの恋人だったりなんかしたら。こんなにがっかりすることもまたとないだろうとぼくは思う。

その時、スペインは何時だったのだろう。調べればすぐにわかると思うけど、調べようとは思わない。ただ、きっとスペインはよく晴れていたんだろうな。とぼくは勝手に想像する。気持ちのいい朝だったのだろう、と。それともお昼かな。時差はどれくらいなのかな。

そしてスペインという国はその太陽のことと共にこれからは記憶されるに違いない。ぼくの中で。そこからは、あのときぼくからは見えなかった太陽を見ることができ、そこはここからはとても遠い場所で、でも太陽はどこからでも見ることができるんだなあ。という素朴な事実に対する感慨とともに。

ぼくは電話を切ってから、雲の向こう側のどこに太陽があるのかを探した。その向こうに、確実に太陽は存在しているはずだった。でもどこにあるのか見当もつかなかった。そしてぼくは環七を渡った。きっとぼくは一生スペインに行くことはできないだろう。

だからぼくの想像するスペインには、Nくんと電話と太陽しか存在しない。

trip 2005,05,23,Monday
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煙草を吸っていたなんて(京都四日目)

2005 02,04,Friday

昼過ぎまで起きれなかった。身体がだるい。喉が痛い。シャワーを浴びて身支度を調え、部屋を軽く掃除し、借りていた合い鍵を使って玄関のドアの鍵をかけて、それをポストに入れたのはもう3時近かった。

バスに乗って京都駅に行くか、15分ほど歩いて西京極駅に行くか、部屋にいるときから迷っていたのだが、結局は歩いて西京極まで行った。外はあまりにも寒く、これはたぶん熱でもあるのだろう、と思う。ぼくはひとりだとあまりにも早足で歩くので、汗だくになり、それが冷えて風邪を引いたのだろうと思う。西京極まで歩くということは梅田に行くことを意味する選択肢だったのだけれど、とりあえず180円の切符を買い(梅田までは390円で河原町までが180円)、一瞬、立ち止まった末に大阪方面行きのホームへ上る階段を通りすぎ、ぼくが向かったのは河原町方面行きのホームだった。ぼくは歩いてみるまで自分がどうしたいのか、どこへ行きたいのかわからない、ということがよくあって、歩き出してみた結果が、西京極駅から河原町駅に行く、という変な選択肢だったのだ。つまりなんとなく風邪を引いたみたいだし、大阪という勝手のよくわからない街にこんな時間から行くのはもう億劫だし、適当に京都駅周辺で時間を潰してそれに飽きたら東京へ帰ればいいや、という気持ちになっていた、ということなのだと思う(ぼくは普段ひとりで行動しているときはいつでもそんな感じなのだけれど、なんとなく他の人たちはそうではないんじゃないかと想像しているのですが、そこのところどうなのでしょうか?)。

河原町行きの電車を待つホームで携帯にメールが届く。それはグリコからで、今日も会社を休んでいるのだという。だからそこでぼくの予定が自ずと決まることになった。彼女の身体の具合がそれほどまでに心配で、という訳でもないのだけれど、会社を休んでグリコが家にいるのならもう東京に帰ってもいいかなあぐらいには思い、5時くらいには京都を出発するくらいのつもりに頭を切り換えた。梅田には行かず河原町に行って(これはもうそうするつもりだったわけだけど)、そこから京都駅へ行っておみやげを買い新幹線の切符を買い、予定よりも早く(当初の予定では夜の11時頃に東京に着くつもりだった)、5時くらいには新幹線に乗る、というところまで、そのメールが届いたことによって決定した。それでもぼくはもう少し京都の街と京都の人たちを見ておきたいという曖昧な気分で、河原町のあたりをぶらぶらした後、京都駅まで歩くことにした。それはつまり河原町から烏丸まで歩き、四条通りを七条通りまで歩くことを意味していて、そんなことは熱っぽいと感じている人間のすることでは断じてなかった。どこかで地下鉄かバスに乗るべきだった。でもなにかがそうすることを拒否していて、途中から京都タワーと京都駅が見えはじめてしまい、見えているところに行くのにバスに乗るのはなんだか気が引けてしまったのだった。でもそれはずいぶんな距離で、京都駅にたどり着いたときにはすっかりくたびれ果てていた。昨日と同じ「京都拉麺小路」にある「宝屋」でラーメンを食べ、新幹線の切符を買い、おみやげを買って新幹線に乗り込んだものの、そこは喫煙車だった。かつて自分が煙草を吸っていたなんて信じられないほど煙草の煙に喉が痛くなり、むかむかしながら(自分が悪いんだけど)東京までぼんやりと窓の外を眺めて帰ったのでした。

trip 2005,02,04,Friday
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新妻のように(京都三日目)

2005 02,03,Thursday

朝8時半起床。Sくんの出社を(新妻のように)見送ったあと(新妻のように)台所の洗い物などをし、シャワーを浴びてから10時過ぎに外出。まずは昨日と同様にバスで京都駅へ。とりあえずまだ上っていなかったので京都駅の大階段を上る。4年前に来たときは階段で上ったので死ぬかと思ったが、今回はもうエスカレーターが動いている時間だったので楽々といちばん上へ。いい天気。どんな建物にも屋上をつけてそこに上れるようにして欲しいです。

ラーメン店街みたいなとこでラーメンを食べる。尾道ラーメン「柿岡屋」。それから歩いて三十三間堂へ。途中、メモなど取りつつ拝観。三十三間堂は何度来ても面白い。来るたびに新しい発見がある。でもあまりにも寒いので、あんまり観られませんでした。靴を脱がなくちゃいけないので、かなり足下が冷えるのです。スリッパくらい履かせて欲しい。二十八部衆像が何体か補修作業のため観ることができなかったのが残念でした。そんなでもないけど。それよりあそこはふすまを開け放って遠くからすべての観音像を一望できるようにして欲しいのだけど無理なのかな。

それから本当は歩いていくつもりだったけど、ちょうどよくバスが来たのでそれに乗って京都国立近代美術館へ。東京でもやってたけど「草間彌生展」を観るため。バスに乗ってよかった。かなり遠かった。古いものから新しいものまで、充実した展覧会だったと思います。ぼくにはコラージュがいちばん面白かった。立体は、あれはやばいんだもん。特に銀色のやつがやばかった。変な気持ちになります。なにかぼくの中の原始的な記憶と結びついているような感じがしました。絵もけっこうそうだけど、かなりぞわぞわします。今日あたり絶対夢に見ると思う。なんか思い出しただけでも変な気分。通して二往復くらいしてから草間彌生Tシャツを買って、美術館内のカフェでコーヒーを飲んで、歩いて四条の方へ。

ジュンク堂に行き、また丸善に行く。阿部和重『グランド・フィナーレ』を買う。三条の方にあるHUBでギネスを飲むながら本を読む。ぜんぜん京都にいるっぽくないけどしょうがない。7時までにSさんの部屋に帰ってSさんの代わりに郵便物を受け取らなければならないので、ビールを2杯とフライドポテトを食べ終えたところで店を出る。河原町から地下鉄で西京極へ。そこから歩いて15分ほどのはずなのに、途中で迷ったので30分くらいかかってしまう。曲がらなくちゃいけないところで曲がらなかったのでした。部屋に着いたのはちょうど7時で、そわそわと郵便物を待ち、Sさんの帰宅を(新妻のように)待ち、歩いてお好み焼きを食べに行きました。とてもおいしかったです。

trip 2005,02,03,Thursday
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ただごとではない情緒(京都二日目)

2005 02,02,Wednesday

12時頃起床。バスで京都駅へ。なぜかマック(関西だからマクドですね)で昼食。ぜんぜん京都にいる感じがしないに決まってる。京都駅からバスに乗って清水寺へ。雪の清水なんてはじめて見た。ただごとではない情緒、と思う。途中、喫茶店でコーヒーを飲んだり、おみやげを買ったり、珍しい四つ葉のクローバーのタクシーを発見したりしつつ、歩いて河原町へ。丸善で橋本治『ちゃんと話すための敬語の本』、内田樹『先生はえらい』。古着屋に行って時間を潰し、開店直後の居酒屋へ。Sさんが店長さんを席に呼び、芋焼酎についていろいろ教えてもらう。いろんな種類の芋焼酎を飲み比べる。地下鉄に乗って西京極まで行き、近所のたこ焼き屋さんでたこ焼きを買って部屋に帰る。生ビールが飲めてたこ焼きが食べれるというすばらしい店。どうして?と目を疑うくらいきれいな女の人が働いていた。ほんと、どうしてだろう。お酒を飲み、たこ焼きを食べ、『ちゃんと話すための敬語の本』を読み終わってから就寝。

trip 2005,02,02,Wednesday
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ヒッチハイクみたいに(京都一日目)

2005 02,01,Tuesday

昼ごろ起き、トーストを食べ、『教養としての経済学』を読んだ。夕方5時頃うつらうつらしていたらSさんから電話があり、これから車で京都に帰るというので、いっしょに連れて行ってもらうことにする。なぜか寝起きなのに即決。寝起きだからかな。というわけで車で迎えに来てもらい、いざ京都へ。ヒッチハイクみたいに。

前半は順調だった。500キロのうちの250キロくらいは、極めて予定通りに進んでいたんだったと思う。途中のサービスエリアで生姜焼き定食を食べたり、きしめんを食べたりして、旅は快適なことこの上なかった。予定通りに行けば0時半くらいには京都のSさんの家に着くはずだった。

問題は長野を超えたあたりからだった。雪だ。関西方面は大荒れだ、という情報を一応頭に入れてはいたけれど、まさかこんなにひどいとは思わなかった。岐阜のあたりで高速道路が通行止めになり、いったん一般道に降りることになった。そこから通行止めが解除されるICまでは30分くらいの距離のはずだった。ぼくたちはそこまで行ってすぐにでも高速道路に復帰するつもりだったのだ。でもそのインターを降りてから、30分くらい1ミリも動くことができなかった。あまりにも到着予定時刻を逸脱しているので、カーナビに怒られるんじゃないかと心配になるほどだった。そんなにひどい渋滞を経験したのはたぶん生まれてはじめてだった。まったく動かないのだ。もう駄目かと思った。このまま車ごと雪に埋もれて死ぬのだと思った。と書きたいくらい猛吹雪の中で車は微動だにしなかった。みるみるうちに車に積もっていく雪を、ぶるぶると身体を震わして地面に落としたい気分だった。水を飲んだあとひげに付いた水滴を吹き飛ばす猫みたいに。

やっとのことで再び高速に乗っても、断続的にのろのろ運転は続いた。除雪車が動いているので、どうしても渋滞してしまうわけだ。それでもSさんは忍耐強く運転し続けた。ぼくも助手席で一瞬たりとも眠ったりしなかった。それがなにかの役に立つのかどうかはわからなかったけれど。チェーンをつけてなかったり、スタッドレスを履いてなかったりする車は、その横を通り抜けるのが恐いくらいにつるつると雪に足を取られていた。

京都に入ったあたりでようやく雪が止んだ。200キロ近くに渡って雪を降らす雲に被われていた土地をやっと脱出したのだ、という爽快感があった。到着予想時刻は出発したときのものからすでに4時間以上遅れていた。それはSさんが実家を出発してから、実に12時間後を示していた。京都に入った瞬間はやんでいた雪もすぐにまた降り始めた。京都だけは雪じゃないだろうということだけを信じてそれまでやって来たぼくたちの希望を打ち砕くように。というほど雪は降ってはいなかったけれど。とりあえずガソリンスタンドでガソリンを入れ、Sさんの部屋に到着。Sさんの荷物の中には大量の「ペヤング」があった。実家から持ってきたのだという。関西では売ってないのだそうだ。ふたりともすぐには眠れず、ビールを飲んで明るくなってから眠った。

trip 2005,02,01,Tuesday
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遠くを見ること(北海道三日目)

2004 11,16,Tuesday

ホテルの回転ドアを出ると雪が降っていた。昨日の夜からずっと降り続いていたのかもしれなかった。それともどこかの時点で一度止み、それからまた再び降りはじめたのかもしれなかった。あるいはどこかの時点で一度止み、それからまた再び降りはじめ、そしてどこかの時点でもう一度止み、それからまた再び降りはじめたのかもしれなかった。眠っているあいだに間氷期が終わり、地球はヴェルム氷期以来一万二千年ぶりの氷河期を迎え、あらゆるものが吹雪の中で凍りつき、氷づけになり、その動きを完全に停止し、だがぼくたちが目覚める少し前にはその氷河期も終焉を迎え、吹雪は弱まり、ピーク時から較べたら雪も次第にまばらになって、その朝、地球は人知れず新しい間氷期の中にいるのかもしれなかった。

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trip 2004,11,16,Tuesday
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羊をめぐる冒険(北海道二日目)

2004 11,15,Monday

朝食を食べ、小樽を後にする。二日目の滞在地、札幌へ向けて出発する。やがて列車の窓から海が見えはじめると、昨日、空港から小樽へやって来るときにもそういえば海が見えたんだったとぼくはおもいだす。すっかり忘れていたのだ。

うとうとしているグリコに「海!海!」とぼくは教える。昨日はしっかり眠っていた彼女はこの線路を走る列車から海が見えるということをまだ知らなくて、どうして昨日起こさなかったの、とぼくは軽く怒られる。こっち側に座ってよかったねえ、とぼくはいう。今日の方が昨日よりも海側の線路で、さらにぼくたちは新幹線タイプの、進行方向左側の座席に座っており、左手に広がる海を眺めるのには正にうってつけといってよかった。

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真摯かつシンシアに(北海道一日目)

2004 11,14,Sunday

というわけで我々は無事に北海道に着いた。実は恥ずかしながら生まれてはじめて空を飛び、夢の中では何度も空を飛んでいたものの、最近では飛んでも電柱の高さまでという体たらく、運動不足、集中力不足なのであって(フロイトによる解釈/介錯を待つまでもなく、これは大人になったということだ。かつては街の上空はおろか宇宙空間にまで飛び出すほど空を飛び回っていたものだ)、上空10000メートルからの眺め、などといったものを想像できなかったし、想像しようとしたことすらなかったし、上空10000メートルなどといったものが存在するとさえおもえなかった。本当のことをいえば、あんなものが空を飛ぶ、ということがいまだ信じられず、これではまるで野蛮人みたいだが(そこでおもいだすのは、『パリ、テキサス』のトラヴィスのことだ)、実際のところ、極力、飛行機のことを避けて生きてきたのだ。「人は土から離れて生きてはいけない」というラピュタの教えを頑なに守り続けて。とかそういったわけでは毛頭なく、自分はいたって普通に暮らしていただけであり、実は肩胛骨のあたりから翼が生えているんですよ。というびっくり人間大集合なわけでもなく、飛行機、などといった大胆かつ大それた発明品に乗り込み、ベルヌーイの法則にのっとって、この戯れごと多き地上を一時たりとも離れる機会すらなかった、と事実はただそれだけのことである。さらに付け加えるならば、もともと自分は旅行というものを必要としていないようなのだ。いってみれば「旅欲」があまりない。もちろん、切実に必要として旅行する、といった人がそれほど数多くいるともおもっていないのだが、このことについてはいずれ書く。

これまでの人生をただただ土の上にへばりついて生きてきた自分にとって、雲の上、とは率直かつ直裁にいって天国かと見まごうかのごとき場所だった。これから自分のするかもしれないあらゆる善行に対するご褒美の前払いであったとしたら、ぼくにはあまりにもありがたすぎて飛行機が墜落するのではなかろうか。あるいは自分はもうすでに死んでいて、空港の金属探知機とは現代的な閻魔大王の代替システムであり、我々はみないっぺんに旅客機型の最新鋭「魂運搬機」に載せられ「あの世」へと運ばれる途中なのではないか。などという妄想を差し挟ませる一片の隙もなく空はくっきりと真摯かつシンシアにどこまでも広がり、その「どこまでも」は決して修辞的形容詞ではなく、雲はといえば地上から見上げるのとはまた別の表情をめくるめく変化させ続け、目の黒いうちにこのような奇跡的な光景をまぶたに焼き付けることのできた幸運を、ただただ「ライト兄弟」および「JAL」に感謝するのみであった。ちなみにチャールズ・リンドバーグが大西洋横断を達成し、その凱旋帰国の際にばらまかれた紙吹雪の総量は1600トンにも及ぶそうである。

幾層にも渡る雲が奇蹟のように途切れ(上空では雲が存在するという状況がこの惑星――「ほし」と読んでもらいたい――の本来の姿であるようにおもえた)、地上が顔を覗かせると、そこには雲を見下ろすよりは馴染み深い光景が広がった。航空写真で見たことのある景色だ。そして、ここはまったく天国なんかではなく、ぼくたちの住んでいる街の上なのだ、とおもうと、嬉しくて涙が出そうだった。こんなにも美しい惑星(「ほし」と読んでもらいたい)にぼくは住んでいたのだ。いまおもいだしてもなお涙がにじむことを自ら禁じ得ないほどである。あの、雲の上にいた90分間のことをおもいだせれば、それだけでもうこれから先、いつまでだって生きていけるような気がするほどだ。パイロットになりたい。遅ればせながら、しかもまったくもって不可能な願いを、人生ゲーム(給料がルーレットの出目によって決まる「アイドル」を除けば、いちばんの高給取りが「パイロット」であった)以来で願わずにはいられないのだった。

そして死んだら天国に行けるなどという教えを流布する宗教というもののすばらしさ/おぞましさを否が応でも考えさせられることになった。このようなすばらしい場所に行けるのであれば日ごと善行に励みなにがなんでも天国に行きたいものだ。とおもうと同時に、そのような餌で人心を惑わせるなど聖職者のすることではなかろうと憤ったりもした。というような意味において、スチュワーデスとはただひとりの例外もなくこの世のものとはおもえぬほどの美貌、というかバイタリティの持ち主であり、どこか人間を超越した存在であるように感じられ、きっと彼女たちは地上の誰よりも哲学者であろうとぼくは想像せざるを得なかった。ぜひ死ぬまでに一度フライト・アテンダントとコンパをしてみたいものである。

飛行機の中で読むための本を持参しなかった、といったミス(ぼくははじめての機内で読むための本をなににするのか何日も考えあぐねた末に、直前になってそのことを忘れてしまった)は、90分間、あのちいさな窓に額を貼り付けることで帳消しになった。高校生だったころ、そのころ付き合っていた女子が飛行機の中で書いた手紙を受け取ったことがあり、そこには確か「おしげもなくムースをこぼしたかのよう」な「雲」が「足下一面に広がってい」る、というような描写があったと記憶しているのだが、いまおもいだしても秀逸な(まったくその通りだったから)飛行機からのそのような描写を超えて、はじめてだということで譲られた窓際の座席から眺める窓外に広がる景色は、なんというのだろう、知らぬ間におでこが飛行機の気持ちを読み取っていたとしてもなんら不思議ではない、知らぬ間におでこが窓を突き破っていたとしてもなんら不思議ではない、おでこのあたりから抜け出した魂が窓をすり抜けて雲の彼方へと身体よりも一足先に帰る、といった事態が本人の知らぬ間に持ち上がっていたとしてもなんら不思議ではない、といったほどの訴求力を持って、めくるめくどこまでも広がっているのだった。そして何度でもいうがこの「どこまでも」という形容は比喩でなく、ことば通りの意味で「どこまでも」なのだ。という事実が実にしっくりとくるのだった。

と雲の上の話はこれくらいにして、地上での出来事も書いておく。

結局ぼくが目覚めたのは3時くらいで、グリコはまだ起きて仕事をしていたのだったとおもう。ぼくはといえばまだ眠っていてもいいはずの時間なのに、たったの2時間寝ただけで目が覚めてしまった。飛行機の出発時刻が7時50分。空港行きのリムジンバスの出発時間が5時45分。5時17分発の電車に乗れば余裕を持って間に合う。その電車に乗るためには4時半に起きればいいはずだった。そうすれば9時半には北海道だ。でもどうしてそんなに早い時間に北海道に着かなければならないのか、ぼくは知らなかった。グリコが勝手に決めたのだ。そしてどうして北海道なのかも、ぼくは知らなかった。

起きて、ぼくは旅行の準備をした。近年の旅行ではアダプターが必携の品となっている。こんなことはちいさいころには予想もしなかったことだ。ぼくたちはその土地土地にアダプトする前に、まずはホテルのコンセントを探し出し、アダプターを差し込み、それぞれの電力の補填を滞りなく済まさねばならない。いくつかの電子機器の電力を保持し続けることが良くも悪くも新たに我々の旅に課せられた命題のひとつなのだ。

というわけで三つのアダプター(携帯電話、デジカメ、パソコン)をバックに入れ(どうしてあの手のものは等しく黒いのだろう。何本もの絡み合うコードがほんとにまぎらわしい)、その代わりにいったん入れた長袖のTシャツを取り出した。寒かったときのためのマフラーとカーディガンを入れると、ふだん使っているバックはいっぱいだ。だがそれでもこんな軽い荷物で、飛行機に乗る、ということが、旅行のイメージと結びつかない。別にバングラデシュに行くわけじゃないのだけれど。

どこかにあらたまって外出するときの、なにか忘れものをしてるっぽい感を抱えたまま、ぼくたちは予定通りの電車に乗る。そしてあっというまに思い当たる。旅行会社から送られてきた何枚かの割引チケットを置き忘れてきたことに。でもそれで「なにか忘れものをしてるっぽい感」は消えてくれる。実際に忘れものをしたことで。

ホテルのロビーにあるふかふかのソファでリムジンバスの出発時間を待つ。早くも飾られてあるクリスマスツリーをちらちらとしか眺めることができないのは、その手前のソファで盛大なキスシーンが繰り広げられているからだ。

グリコはクリスマスツリーの写真を撮ることに気を取られるあまり、まるで、その大胆かつ非常識極まりない中年カップルの見苦しくも赤裸々なシーンを特ダネとしてフィルムに収めようとするパパラッチみたいだ。ぼくたちの旅は聖夜を彩るためのツリーと、性夜に遅れた中年カップルに見守られる形での出発を余儀なくされ、そのことの意味を過剰に読み取ろうとする余力などそのときのぼくには微塵もなかったのがむしろ悔やまれるくらいだった。

バスは予定を上回る順調さで空港にたどり着き、ぼくたちは時間をもてあまし気味だった。朝食を食べておこう、という名目でぼくたちは空港内を歩き回った。空港すら初体験だったぼくには、空港という施設は洗練されているにもかかわらず、それを利用する人たちの大半はおよそ洗練されているとはいいがたい、自分も含めて、とおもわずにはいられなかった。なんというか、そこは東京であるにもかかわらず、どこか地方都市の一画のようだった。というとまるで地方をバカにしているみたいだが、そうではなく、懐かしい感じがしたのだ。昭和40年代の日本に戻ったみたいな。空港という場所で、ぼくたちは日常を脱ぎ捨てて本質をさらけ出してしまうものなのかもしれない。そうしないと、重みで飛行機が飛ばないのだ、とでもいうように。といいたいくらい、紋切り型の「日本」がそこでは感じられた。あの、海外でカメラを首から提げていたら、それは日本人だ、といわれていた時代の日本人。

ぼくたちはなぜかどこの飲食店に入るかを決められず終いで、結局、売店で2種類のベーグルを買いベンチに座って半分ずつ食べた。どうしてなのか理解できないのだが、空港のどこにも自動販売機が存在せず、そのおかげで、ベーグルというものは液体抜きで飲みこむには骨が折れる分子構造であることをぼくたちは発見することができた。ヌクレオチド。という単語が思い浮かんだが、たぶんあんまり関係ないとおもう。

そんなわけで、ぼくたちの喉付近にはぜひとも液体による洗礼が必要だった。物理的にではなく、気分的に。そしてとても見晴らしがいい、と謳われているレストランに入りコーヒーを飲むことにする。その店からは飛行機が見えた。飛行機はなんだかぱっと見、魚みたいだった。で、「おはよー」「ういーっす」「昨日飲み過ぎちゃったよ」という感じでのろのろとどこかから集まってきては、目の前で次々に飛んでいった。ぼくはその一挙手一投足にいちいち感動した(いま、こう書いているいまでは、あの、飛行機が飛ぶ、ということをもはや信じられなくなっている)。

で、いよいよぼくの乗る飛行機が飛ぶ番がやって来る。いやあすごかった。そのことはもう書いたんだった。というわけで飛ぶ前のことを書くけれど、あの、金属探知器に引っかかりました。お約束のように。あれって、初心者に対する洗礼なんですよね?ね?じゃあ靴脱いでください、とまでいわれ靴を脱ぎ、ボディチェックまでされてしまいました。すごい屈辱的。あの、トレーに載せられたぼくのアディダスといったら!まあどう考えても100円ショップで買ったベルトのせいに違いないのですが、「え、ベルトも取るんですか?」というぼくの質問をまったく請け負わず、係官の人はまったくにこりともせず白い手袋をはめてぼくの腰付近をまさぐるのでした。実は自分は誰かの陰謀で大量のヘロインを靴底に隠しているのではないか、と訝られるほどの係官のマジっぷりにはいくら仕事とはいえ恐れ入りました。うん。

というわけで北海道に着き、小樽へ行き、チェックインの時間前にホテルに荷物を預けに行ったら部屋に通され、それから鮨を食べに行き、小樽文学館に行き、運河沿いを歩き、小樽運河工藝館でガラスのコップを作り、地ビールを買ってホテルにとりあえず帰りビールを飲んでいたら疲れてそのまま眠ってしまい、なんと北海道の一泊目は夕食抜きという結果に陥ってしまったのでした。

trip 2004,11,14,Sunday
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仙台三日目

2004 05,04,Tuesday

7時前に起きる。今日は仙台旅行の最終日。シャワーを浴びて髭を剃る。にしても狭いなあこの風呂。史上最高狭い風呂。もちろんユニットバスなのだが、シャワーを浴びてるとしきりのためのシャワーカーテンが身体にくっついてきて気持ち悪い。前日同様、朝食はパン。前回の失敗をふまえて、わが朝食からクリームパンを駆逐することに成功。かと思いきや最後に手に取ったどら焼きがクリーム入りだった……。グリコに笑われる。手早く帰り支度を整え、チェックアウト。といっても鍵を箱の中に返すだけというなんとも合理的なシステム。9時ちょっと過ぎのバスに乗って仙台文学館へ行くつもりだったが、どのバスに乗ればいいのかわからず、結局タクシーに乗る。仙台史上初タクシー。仙台文学館では宮沢賢治展を見学するのが目的。作品の原稿よりも友人や家族に宛てた手紙がおもしろい。声に出していちいち読んだ。二人でけらけら笑いながらだ。でも決して馬鹿にしているわけじゃない。ほとんど畏敬の念に近い。「雨ニモ負ケズ」の書かれた手帳の実物があった。超レアもの、という感じ。高橋源一郎の原稿が載った宮沢賢治展のパンフレットを買い、10円払ってチケットをしおりにしてもらい文学館を後にする。バスで仙台駅へ。予定では石巻へ行くはずだったが、快速列車が来るまでに間があったし、遠いのでなんとなく変更し、急遽、塩竃へ行くことに。本塩釜で下車。なんだか閑散とした駅前。ほとんど観光客の姿も見受けられない。寿司を食べることにする。なんとなくいい感じのお寿司屋さんを発見。店の外に何人か並んでいる人がいたので、これはおいしいのかもしれないとミーハー丸出しで列の後ろにつく。並んでいるあいだ、会計を済ます人たちに対して耳を澄ましていると2万7千円です。とか1万5千円です。とかいってるのでちょっとびびる。ほどなくして店内へ。瓶ビールに、にぎり。それと生ガキ。食後のシャーベットまで、全部がおいしかったです。さすが港町。もうすっかり塩竃気分を満喫だったが、せっかくなので塩竃神社を参拝することに。7時の新幹線まではまだ5時間もある。資料館に入る。入口には巨大な捕鯨砲がいくつも飾ってある。こんなんで鯨を捕ってたんだね。館内にはいろんな種類の刀とか、なんだっけな、動物の剥製とか、岩塩とかが展示され、そのどれもが時の洗礼を受けて、いささか古ぼけて見えた。こんなとこ誰が見に来るんだろうか、とまではいわないが。そして展望台にのぼる。誰もいない。廃校になった学校の屋上みたいなその展望台からは、遊覧船から見えた火力発電所の三本の煙突が、やや角度を変えて並んでいるのが見えた。松島も見えた。晴れてたら。とはもう思わなくなっていた。この三日間、空はほとんど曇り続け、そういう気候の土地なのだと思うようになっていた。茶屋で団子を食べて休憩した後、ちょっと港の方まで歩いてみようということになる。観光地のおみやげや的な建物にはこれまた展望台があり、のぼってみる。寒い。晴れてたら。とはもう思わなくなっていたといったが、きっと晴れてたらもっと遠くまで見えたことと思う。曇りでも遠くまで見えるのだから。ここからも遊覧船から見えた火力発電所の三本の煙突が、さらに角度を変えて並んで見えた。さっきの塩竃神社の資料館の展望台を探したが、どこだかわからなかった。展望台から展望台を見ることはできない。もっとほかに見るものがあるからだ。そんなこんなで、だらだらとぶらぶらして船がたくさん浮かぶ海を眺めつつ駅へ向かい仙台へ。帰りの仙石線の乗務員は女の子で、どうして女の子の駅員さんのする車内放送はどの子も似ているのだろう、と考えたりする。そしてみんな若い。あ、若いのは、採用されるようになったのが最近だからですね。きっと。んで仙台駅へ。ああやっぱりここは町田だ。やっと空が晴れてきた。おみやげを買う前に再度ジュンク堂へ。別に帰ってからでもいいのだが、まあ時間潰しというやつだ。グリコは「もう、家に帰ろう」(だったか)という写真集を買っていた。ここで買わなくてもいいじゃん、と思うが、口には出さない。本人が買いたいときに買えばいいからだ。さて、駅弁を買って新幹線で食べるという手もあったのだが、どうせなら、というわけで再び「伊達の牛たん」へ。初めて並ばずに入れた。というか食べ過ぎ。牛タンを食べに仙台に来たとはいえ、4回は食べ過ぎ。でもこの牛タンと麦飯とお新香とテールスープの組み合わせの完成度の高さったらない。食べている途中で店員さんがなぜかぼくたちの席のところの窓だけを覆っていた日よけを上げた。さあ見てください、これがわたしたちの仙台です、とでもいわんばかりに突然。そうしたらすごくきれいな空が見えた。一瞬、牛タンを食べる手が止まってしまうほどだった。それまで、ぼくはそこに窓があることさえ気づかなかったが、日よけの向こう側にはこれから晴れてゆこうとしている空があった。そして、いつでもすべての窓の外には空があり、晴れたり曇ったりしているのだと思った。そう、それは仙石線の中で女子高生を見たときに感じたことと、だいたいにおいて似通っていた。うまく言葉にできるかな。ただの女子高生好き、というだけのことかもしれないが。どこか自分の知らないところで、一生懸命通学し部活をしおしゃれをしおしゃべりをし恋愛し帰宅したりしている女の子たちがいるということを目の当たりにすると、思いのほか、勇気づけられる思いがする。というか、嬉しい。という感じがする。これはどういうことなのだろうな。別に女子高生じゃなくったってかまわないのかもしれないが、生きることの困難さを抱えている代表として、きっとぼくの中には「女子高生」というものがあるのだと思う。そして目の前にいる女の子だってきっとあの「女子高生」たちと同じで、というかかつて「女子高生」であった女の子として、一生懸命生きているわけで、そのことを忘れてはならないな、と肝に銘じるのだった。というわけで、この旅のあいだずっと空が曇っていたことが、なぜか最後に教訓めいたものをもたらし、何枚もの牛タンはぼくの胃をもたらした。牛に呪われてしまいそうだ。コインロッカーから荷物を取り出し、さんざん悩んだあげくおみやげを買い、3本ビールを買って新幹線に乗り込む。そこから東京はあっというまだ。一歩も歩かずにたどり着く。なんて速いんだろうな新幹線は。ちょっと速すぎるんじゃないだろうか。歩いて松島に行った松尾芭蕉はどんくらいかかったんだろう。夜の新幹線の窓からは、ほとんどなにも見えなかった。

遠足なら、いっしょに遠くに行った友だちと最後の最後で別れなきゃなんないが、旅行から帰った後も、いっしょに旅行にいった人間といっしょにいるのはなんだか変な感じがする。いや、そんなことないか。気のせいか。グリが二カ所に吐いていた。そしてまたもや隣の部屋から悲鳴のような声が。ブロス登場。グリが近くにいないのに窓ガラスに体当たりしやがる。なんだろう。友だちになりたいのかな、とちょっと思ったりした。12時前に倒れるように眠る。

trip 2004,05,04,Tuesday
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仙台二日目

2004 05,04,Tuesday

6時起床。それからグリコが起きるまでの2時間、ネットやら、日記やら。8時半、朝食を食べに朝食を食べるための場所へ。このホテルの朝食はパン食べ放題、飲み物飲み放題のブッフェ・スタイルであった。もちろん、ただ並べられた数種類のパンをトレーの上に好きなだけ乗せて食べる、というだけのことである。ここのホテルはかなり格安なので、客はほとんどみな若く、まるで学食みたいな雰囲気だ。ここで「クリームパン事件」が勃発。それは、ぼくの手に取るパンの中身がことごとく「クリームパン」だった、という大変悲劇的な事件であった。まず、いただきます、といってかじった一個目がプレーンなパンかと思いきやクリームパン。いきなり甘いのはね、しかもクリームパン嫌いだし、ということで半分残し、はい次。ロールパン。これもプレーンなものかと思いきやバターが中に。おいしい。というわけで同じ形のパンを持ってくる。これがなんとクリームパン。ああ間違えた隣のやつかな、と思って持ってきたらそれもクリームパンなんですよ。それなら違う形にするか、なんか書くかしてくれよ、と思いませんか。結局、2個半食べましたけど。

というわけで、今日は雨が降ることを見込んで、遠出はせずに市内のいろんな場所に行くことに決定。まずはデパートに傘を買いに。その後、「るーぷる仙台」という市内循環バスに乗り、各地をめぐることに。ここで一日乗車券600円を買うことも忘れていませんよ。まずはめちゃ込みの中、仙台城趾へ。仙台城は別名、青葉城です。伊達政宗の像の下で写真を撮ったり、撮られたり。松島で見かけたカップルを二組見つけたり。と思ったら、昨日行ったけど食べれなかった牛タン屋があるじゃないですか。昼前だけど、もう並んでるけど、さっそく名前を記入しておき、その店を中心に周辺をぶらつくことに。途中何度も確認しに行くものの、さすがに牛タン定食は客の回転が悪いようで、遅々として消化されぬ名前の列。おそらく1時間ほど経過したところでようやく席に着く。ここでこの旅4杯目の生ビール。そして牛タン定食1,5人前。昨日のお店と甲乙つけがたい、というか勝るとも劣らない牛タン。たまらず麦飯をお代わりします。もうなんというか、食べ終わり、会計を済まし、店の階段を下りた途端にまた列に並びたいくらいおいしい。いいすぎだけど。さて、至福の時を過ごした後は、腹ごなしにちょっと歩くことに。「鑑真和上展」が催されている仙台博物館を素通りし、道に迷いつつ、宮城県立美術館へ。ここではいろいろな絵や立体を見ました。昔より確実に立体がおもしろく感じられます。なんというか、「モノ」がここにある、という感じがすごくいいですね。んで、バスに乗って帰ろうかと思ったけどバスが1時間くらい来ないみたいだし、雨もけっこう降ってきたしなので一回バス停に行ったけどまたもどって美術館内のレストランでコーヒーを飲む。で時間が来たのでバス停に行きバスに乗ったらこれがめちゃこみだが、でも一駅で降りるから我慢。それにしても人多すぎ。宿に一番近いメディアテークで下車。なんとなく建物の中へ。なにをするところなのかよくわからない近代的なスペース。の片隅に、最近はやりの本やCDや美術書のセレクトショップめいた一角を発見。東京にもあるじゃん、というつっこみを控えつつ、大竹伸朗の豊富な作品群をしばらく立ち読み。ここから宿はすぐ近く。いったん帰ることに。んで、グリコはんは調子悪いようで1時間くらい横になる。ぼくはビールを。8時半過ぎ、宿からほど近い、この旅の主要目的でもあった「べこ正宗」へ出陣。この店の「とろ牛たん寿司」が食べたい、と思って仙台に来たら、偶然、ホテルからものすごく近かったのです。だがやはりものすごい人。すごい才能がある人、という意味ではなく、ものすごくたくさんの人。一応名前を書き、宿へ戻る。で30分くらいしてから再度出陣。で、そっからさらに30分以上待ったのかな。馬鹿じゃなかろうか、と思いながらもだらしなく並び続けてしまい、本当に恥ずかしい。そんなこんなでやっとのことで入店させていただく。「るーぷる仙台」といい、「伊達の牛たん」といい、「べこ正宗」といい、それほどのキャパシティがあるわけでもないのに、何らかの不自然な力によって極端に人が集中してしまっているという印象。あ、ゴールデンウィークだからか。まあビールと牛タンで、待ってたことなんかどうでもよくなってしまうわけですけれども。しかしながらあんなに並ばされると怒りに近いものが沸々とわき上がってくるもんですね。みんなよく平気な顔して並ぶよな。たいしたもんだ。

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