踊りとねむり

2013 08,10,Saturday

夜になるといつもホームレスのおじさん(猫のおじさんとはちがうおじさん)がねむっている場所がある。ある建物のエントランス。屋根のある3m×3mくらいのスペース。そこは金曜日になると若者たちがダンスの練習をする場所になるのだった。そのことをもちろん当のおじさんは知っているだろう。けれど、あの若者たちが知っているのかどうかはわからない。もしかしたらそのことを知っているのは、世界中でそのおじさんとわたしだけかもしれない。

あるいは、おじさんと若者のあいだにはコミュニケーションが存在していて、金曜の夜だけは若者たちが特別に貸してもらっているのかもしれない。でもわたしはなんとなくおじさんは金曜日のダンスに気づいていて、若者たちが踊る・踊らないにかかわらず、金曜日にはその場所にいないように気を遣っている気がしてならないのだ。……まあそもそもおじさんの場所ではないわけだけれど。

入口が大きなガラスの自動ドアになっているから、じぶんたちが踊っている姿を映すことができて、きっといろいろと都合がよいのだろう。両者に共通するストリートの勘のようなものが、ふしぎとかれらをひとつの場所へと導いたのである。踊るために。ねむるために。

だから金曜日にはおじさんはひとつ交差点を渡った先の、写真スタジオの軒先でねむることになる。なんだかひどく窮屈そうだし、そこにはじゅうぶんな屋根だってない。もし金曜日に雨が降ってしまったらどうするのだろう、ということが最近のわたしの心配事である。雨の日にはダンスの練習をサボるくらいの、比較的勤勉ではない若者たちであってくれたらと願うばかりである。

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猫の天国

2013 08,08,Thursday

深夜の路上でおじさんがねむっていた。そのとなりで、まるでおじさんの真似をするみたいにして黒猫がねむっていた。そっくり、おなじ格好だった。いまどき、ほんものの親子だって、あんなふうに並んでねむったりしない。きっとかれらは仲良しなのにちがいなかった。だって、黒猫はおじさんのそばで、ほんとうに安心してねむっていたからだ。

わたしは散歩のはじめのほうにねむっているかれらをみかけて、散歩の終わりに、もういちどねむっている姿をみてきた。わざわざそのために遠回りして。黒猫はさっきより、もっとおじさんのそばでねむっていた。

あんなふうにして猫と並んでねむることができるひとは、きっと天国に行くことができるにちがいないとわたしはおもう。もしかしたら、それは猫の天国かもしれないけれど。

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ずうっと先の方に戦争が

2004 09,25,Saturday

電車では座らないことにしています。座れるかな。座れないかな。とか、もうめんどくさいのです。超座りたい。もう超疲れた。座りてえ。うわっ。ぎりぎりで座れねえじゃん。ざけんなよボケ。座らせろっつーの。絶対おれの方が疲れてるし。間違いないし。早く降りろハゲ。そして死ね。自分が乗っていた車両に轢かれて死ね。とかね。もう疲れるのでやめにしました。電車で座りたい、と強く思う気持ちの、ずっとずっとずうっと先の方に戦争があるのだと、これは40%くらい本気でおもっています。と40%くらい本気で書いています。それになんだかあれじゃないですか。ほとんど座席って埋まってるじゃないですか。その余裕のなさ加減みたいなものもなんだか気になるのです。ふふん。空いてるけど座らないもんね。だって実際そんなに疲れてないし。3駅で降りるし。とか大人の余裕を見せたいものだ。あるいは、おばあさんが乗ってきたときのために何席かはつねに空けておこうよ。おこうか。うんうん。おこうおこう。いえーい!みたいな気遣いがちらりとでもあったらいいのになあとおもうのです。実際にそうしなくったっていいですよ。心の隅にそういう気持ちをちょこっとでもとどめておきたいものだなあとおもうわけです。あんなにまでしてイス取り合戦を繰り広げなくったっていいじゃん。優勝したらiPodでも貰えるのか。もちろん疲れてたら座ればいいよ。座りたければ座ればいいの。そして超混んでるのに牽制し合って目の前の空席を躊躇してる奴ら!アホか!座れ!ドア付近で押し潰されてる人のために一人分の空間を空けろ!次の駅で降りるとしても座れ!ただちに!と、まあそういうときは遠くから人波をかき分けてでも座るべきです。が、基本的には座るのをやめにしました。というお話でした。だって基本的に疲れてないですからね、ぼくは。それによく観察していると、人波に圧しまくられて翻弄され座れなかったお年寄りがその電車は諦めてまた次の電車を待つために並び直したりしているわけです。ぼくはそんなかわいそうなお年寄りの代わりに「すみません。席を譲ってあげてくれませんか?」と乗客の皆様に聞いてまわりたい。と同時にそんなに座らなくちゃ駄目なくらいならもう電車なんか乗るなババア死ね。とおもったりもします。なんだか人格が破綻している人みたいで恐いですね。

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そしてまた夏がやって来る

2004 09,16,Thursday

ぼくの頭の中にはいつでもカレンダーがあって、いまこうしてそのカレンダーを頭の中に意識してみると、そのカレンダーはぼくの頭の中にありながらもぼくをまるごと包み込んでいるようにも感じられる。なんというか、ゴキブリホイホイみたいな感じだ。彼は(つまりぼくのことだが)、ぼくの頭の中のゴキブリホイホイの中にいて、もうずっと囚われている。高い塔の上で育てられたラプンツェルみたいに。

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夜になるとぼくらが

2004 08,19,Thursday

ぼくらはつまり川にいたいのだ。川にいると、ぼくらはつまり川にいたいのだ、という思いが募ってくるような気がする。ぼくらは川のそばで、とてもリラックスできる。海の行き止まり具合は、寄せては返す波をともなって、積極的にぼくらを押し返そうと目論んでいると思われても仕方がないほど、時に攻撃的だ。急に近づいてきたり、遠ざかったりする気まぐれなブルドーザーみたいなもんだ、海とは。さらに視野をグローバルに押し広げてみるならば、海の、地上を飲みこむ目論見は明らかだと結論せざるを得ないのだ。ぼくらはいつか海に閉じこめられ、箱の中のショートケーキのように取り出しづらくなってしまうだろう。

あるいはこういってもいい。ぼくらは結局のところ、どこかにいたいのだ、と。どこか、自分がいてもいい場所に。いることが許されている場所に。川はもちろん無数の選択肢の内のひとつだが、驚くべき合理性を兼ね備えている。川は近くにあり、無料だ。そして広々としている。もちろん、人によって条件はまちまちであり、川よりも海の方が近い場合だってある。だからひとこと断っておくけれど、これはぼくらの場合の話だ、生まれたときから川が近くに流れているぼくらの場合の。

そう考えると土地に値段がついていることにも納得がいくような気がする。わたしは然るべき金を払った、したがってわたしはここにいてもいいのだ、というわけだ。そして表札を掲げるというわけだ。立派な家ほど立派な表札があるのは、ここは自分の場所だといいたい気持ちの表れであって、表札とは思った以上に両義的な機能を持ったものである。なぜなら、ここはわたしの場所だ、ということを他人に教えているのだから。それは目印であるというよりも、まずは抑止力であるつもりなのだろうか? 

夜になるとぼくらが家に帰るのは、そこにいてもいいことになっているからだ。そしていつかぼくらは、誰かのための場所を作らなくちゃならない。その人が心の底から安心して「ここにいてもいいんだ」と思えるような場所を。暗くなったら帰ることのできる場所を。あるいは朝になってしまったときにいち早く帰りたいと思える場所を。とりあえず、まずいちばんに寝ころびたい場所を。だから家族とは、あなたがいつでもそこにいてもいいと考えている人たちのことで、川は間違いなくぼくの家族だ。川はみんなの家族だ。

ぼくらは川にいたい。だから、バーベキューをする。本当はただ川にいたってかまわないのだ。川はぼくらになにかをしろと要求したりしない。明日までに原稿用紙で10枚、森鴎外について書け、などと命令したりしない。でもなにかのため、たとえばバーベキューのために川にいる方が、川にいるという感じがするし、川の恩恵をもっと感じられるものだ。ぼくらが川に似合うためにできることは、川の機能を存分に引き出すこと。それは女の子とつき合うのといっしょだ。だから川で冷やすビールの温さには、余程のことがなければ目をつぶるべきなのだ。誰でも完全というわけにはいかない。いくらかはまだ冷たいというだけでも感謝するべきなのだ。それにどうせ酔っぱらっているのだ、多少冷えてなくともかまわないではないか。

ぼくらは川で、川という場所は実に、つくづくバーベキューに最適の場所だなと思う。だからバーベキューをするのだな。そしてやがて川にいることすらぼくらは忘れる。陽が落ちて、ぼくらは川の流れを見失う。それでもいつだってそこに川は流れており、ぼくらになにひとつ要求せず、いつでもぼくらの訪れを待っていてくれる。

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アンダーグラウンド・メタレベルとしてのABC

2004 07,27,Tuesday

でもね、って青山ブックセンターのことですけど、そんなに、「特別な本屋だった潰れて哀しい畜生」とかじゃあないんですよ。もう諦めていますし、どんな本屋が潰れたって哀しいですからね。ぼくは。花瓶が床に落ちて割れただけで哀しい。だから部屋に花瓶を置かないほどです。こんなにも花が好きなのに……。だから、「潰れたんだ、へえ」と思って、実際に店の前まで行ってみたり、ちょっとなんか書いておこうかな、というくらいには、まあ特別ではあるのですが、それほどの思い入れがあるというわけでもない。ちょっと近くまで行ったから記念に見学してきたに過ぎないですよ。とあらためて否定するほど思い入れがないわけでもないんだけど……。

というわけで書くという行為は、その題材を選んだ時点で、その対象をなにか特別なものに仕立て上げてしまうところがそれはもうありすぎるくらいにあるわけです。デリダが脱構築の対象に選んだというまさにそのことによってモダンは延命してしまう云々というのといっしょで。なんてことはないふつうの人を描いたことによって日本近代文学がはじまった云々というのといっしょで。ここでぼくがいきなり二ノ宮亜美さんという女の人について長々と書きはじめたとしたらどうですか。まるでぼくが二ノ宮亜美さんに好意を抱いているように見えませんか。と二ノ宮亜美なんていう名前を出している時点でぼくはあだち充好きであることになってしまうわけです。いや実際あだち充好きだからいいんだけど。というようなことをちょっと反省したんですね。だってあまりにもナイーヴに青山ブックセンターが潰れたことに対して遺憾の意を表明しすぎだよみんな。おれもだけど。と思ってしまったのです。ネットを見ていたら。とこんなことを書いていること自体が極めてナイーヴなふるまいになってしまうねえ、これ。っておれは二葉亭四迷か。と、まあ文学部じゃないとよくわからないつっこみを入れつつ、というか文学部でもよくわからないかもしれないのだが、というかおれにだってよくわからないからみんなは気にしなくていいと思う。たまになんとなく「二葉亭四迷」とかいってみたいだけです。

でもさ、青山ブックセンターはぼくにとってふつうの本屋でした。おしまい。っていうなら、別に書かなくったっていいわけですね。いや書いたっていいわけですけど。そこのところが難しいなあと思うのです。というほど難しいとは思っていないのです。うるさいよもう。いいかげんにしろ!というわけで、言語というか書かれたものにはメタレベルが存在しないのですね。つまらないことを書くな!と書くことのつまらなさを指摘することのつまらなさ、を見事に体現してやまない2ちゃんねる的不毛さ(健全さ?)は、反ファシズム装置としていつまで有効に機能するのでしょうか。安易な暴力的メタレベルが空高く析出されてしまうような気がしてなりません。鳥のようなファシズム。というのはぼくの心の奥底に隠された個人的な願望かもしれませんが、ファシズム監視装置としてのシステムが、容易にファシズムに成り下がる、というか成り上がることがありうるわけです。ミイラ取りがミイラになる、というやつ。ってなにを書いてるのかさっぱりわからなくなりましたが、青山ブックセンター青山本店は、その立地形態によってのみならず、おそらくはその卓抜なコンセプトによって垂直下方向への本屋的メタレベルとして機能していたのだなあ、あのころのぼくにとって、とあらためて感慨深く思った次第です。アンダーグラウンド・メタレベルとしてのABC。密やかに、どこにも伸びていかない地下茎。もうジュンク堂でいいや、とぼくは思っていますよ。そしてこれはニヒリズム以外のなにものでもない。あらゆるロマン的情熱を根こそぎにして、『セカチュー』でも読んでろという時代。もうなにもかもが哀しい。哀しいことすら哀しい。奇妙に平準化され果てた大地の上に、突如として大輪の花が咲き誇り、ほかのすべての花を枯らしてしまうような結果に陥る気がしてなりません。

essay 2004,07,27,Tuesday
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