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死んでからが人生

2005,06,08,Wednesday

起きる。昼の3時に。仮眠しよう2時間ほど。仮眠仮眠。と思って寝たらそれは仮眠ではなかった。6時間も寝てもうた。それはもう本眠である。仮眠は、そうだな、せめて3時間以内だと、ぼくは思うよ。

夜7時からソウルセットの新譜のリリースパーティが代官山である。開かれる。催される。とのことでチェアマンからありがたいお誘いを受けた。というと、なにかソウルセット関係者の偉い人。もしくはサッカー関係者の偉い人から招待されたみたいに聞こえるが、チェアマンは友だちのあだ名です。というわけで7時から代官山で。ということは6時くらいまでには新しい企画のラフデザインをざっくりなんとかしておかなければならない。なぜなら明日見せなくちゃいけないから。ので、ざっくりなんとかした。と書くといかにも簡単そうだが、結構たいへん。そしてバナナを食べて家を出た。バナナってすごいよなあ。すぐ食べられて、しかも栄養。という感じがするよ。果物なのにだよ。あの皮をむくときのわずかな時間と期待感のバランスが絶妙。猿でなくとも大満足の果実。太古の昔から。といった趣き。なにか神妙な気持ちになるよ。皮むくときって。これを失敗したら大変なことになるよ。とでもいうみたいに。そしてバナナってのは部屋の中で食べてるのに、外にいるみたいな気持ちになります。ロビンソン・クルーソーみたいな。さらにバナナといえばトマス・ピンチョンの『重力の虹』で、あの小説にはさまざまなバナナ料理が出てきて、ぼくはバナナを食べるたびにあの小説のことを思う。うっすらと。〈海賊〉の〈バナナ朝食〉だ。そしてぼくの頭の中では勝手にトマス・ピンチョンがガルシア・マルケスにバナナ料理について質問しているところが浮かぶのだが、それは『重力の虹』と『百年の孤独』を読んだ時期が近かったためだろう。とはいえ『重力の虹』は何度読み始めても上巻の途中で挫折してしまうので、いまだなお読み終えていない。というのは、これ、あまりにもよくある話。最初の100ページくらいを、だから何度も読んで、その辺だけすごくよく覚えている。最近もまた読み始めてしまった。

そんなわけでチェアマンと代官山UNITへ。どうも代官山は慣れていない。というか、街の名前が怖い。というか、お代官様になにか嫌な思い出がある。のか知らないが、緊張する。ここはお前の来るところではない。許可証が必要だよ。見せなさい。ないなら、帰りなさい。といわれているような気がする。とりあえずその着ているものを脱ぎなさい。そんなものを着ているくらいなら何も着ていない方がまだましだからねえ。お前鏡を見たことがあるのか?そんな格好でよくここまで来れたねえ。まったく賞賛に値するよ。あはは。ほら。早く服を脱ぎなさいったら。脱げ!脱ぎな!このうすらとんかち!

まずは北朝鮮戦をみんなで観戦。無冠客慈愛。無観客試合。ボールを蹴る音がよく聞こえる。ような気がする。試合の途中でビールを買いに行ったんだけど、ふたり分のビールを両手に持って、暗い中、床に座っている人を踏まないように気をつけ、頭の上からビールを注いでしまわないようにと気をつけながら、無事に元の位置に戻ると、こんなことは人間にしかできまい。という勝ち誇ったような気持ちになった。

というわけで日本代表は北朝鮮に勝ち、いよいよライブ開始。懐かしい曲もやったはず。というのはソウルセットのCDは昔、全部売ってしまい、手元には一枚も残っていないからだ。なんで売ったのかな。自分でもすっかり忘れていたが調べてみたら実は『PURE LIKE AN ANGEL』から買っていたのだった。1993年。っていうと、高校生か。たぶん95年の『TRIPLE BARREL』までは買っていたんだった。でもそのあと、アルバム3枚しか出してないんだね。CDを売ってしまったことによってそれにまつわる記憶も消去、みたいな感じに自分はずっとなっていて、どうして曲を知っているのかどこか不思議な感じがし、まるで前世の記憶かなにかのようだった。すごくよく知っているような気がするんだけど、この人誰だっけ?みたいな感じ。あるいは、短い時間にビールを4杯飲んで酔っぱらっていた。空きっ腹に。というのも手伝ってのことなのかもしれないが、ものを売ってしまうというのはそういうことなのだなあと思いました。脳の一部を切除したみたいだ。無線LAN経由でハードディスクにデータを保存するみたいに、人はものに記憶を託し、いつでも好きなときに呼び出している。のだ。遠隔操作的に。たとえば売ってしまって部屋にないことと、いまでも部屋のどこかにはあるだろうけどどこにあるかはわからない、ということには雲泥の差があって、売ってしまうと、思い出すにしても「そういえばあのCDは売っちゃったっけ」くらいのものになってしまうようだ。死者を埋葬し、墓を作る。という人類の発明は、だからものすごいなあ。墓場に行けば墓がある。というわけだ。人間の記憶システムはどこか唯物論的なところがある。あるの?あるのかも?あるのかも。うん。あるのかも。墓とは記憶の外部化、外部の記憶装置に他ならない。というわけで人間の作り出すあらゆる「もの」は墓標である。という立論で昔、論文を書いたのだが未完。小説とは墓碑銘。生者が聴きとる死者の悲鳴。反響する耳鳴りとの対話。とかいう感じの。死ぬまでには書くつもり。死ぬまでには死ぬつもり。という墓碑銘にしてもらおうかな。俺は。だから生きるということは、死んだあとで、自分の墓の前で、自分の墓を訪れてくれる人に、どんな風に思われるのか、思われたいのか、思われたくないのか、ってゆうことで、「死んでからが人生なんだよね」という『カンバセーションピース』の主人公のことばはそういうことだ。死んでからの方が、だって長いものね。苔のむすまで。

というわけで、チェアマンとはさらりと別れ、渋谷ティーヌンでひとりトムヤムラーメンを食べて帰宅。2時間ほど仮眠。3時半に起きて、「wanted!」を聴きながら作業。水曜深夜3時からのラジオをまだ一度も聴き逃していない。とは、いったいどういった生活なのだろうか。現在、どういうわけか、ラジオを週に4番組、かかさず聴いております。こんなことは中学生以来だ。salyuのラジオ2本。前述の菊地成孔+大谷能生の「水曜WANTED!」。あとはダーリンハニーの「サタグラ」。

2005, 06, 08, Wednesday

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