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『誰も知らない』

2005,06,01,Wednesday

最近、DVDで観直したし、チェアマンさんも日記に感想を書いていたので、そういえば、ぼくも映画館で観たあとに感想を書いたっけなあ、どんなことを書いたっけか。と思い、自分の日記内を検索したところ、そんな感想は存在していなかった。非公開になっていたのだった。なぜなら未完成だったからだった。ですが、せっかくなので未完成ですがのっけます。のっけからのっけとけって話ですがね。へへへ。
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八月二十四日(火)
夜、『誰も知らない』を観に自転車二人乗りでふたつ離れた駅へ。汗だくだ。「てんや」で天丼食べてから映画館へ。映画館って急いでいくと予告が長い。かといってのんびりしてると本編がはじまってる。ような気がするが、たぶん気のせいだ。というわけで『誰も知らない』について書く。なぜならこの映画は観るものになにか考えろと促すような作りになっているように思えるからだ。ある状況が提示されている。だがそれに対する監督の価値判断は基本的に極力控えられている。もちろん圧倒的なまでに「こどもたち」の存在が肯定されていることが収められたフィルムであるのはいうまでもない。じゃなきゃあんなの撮れない。以降ネタバレあり。なものを書きたいと思っているがどうなるかわからない。ネタバレにさえならないかもしれない。というか、ばれて困るようなことなんてあるのだろうか。この世に。えーと。あるかな。ありますね。でもとにかく、ネタバレとかネタバレじゃないとか、本当にどうでもいいと思う。ばらそうと思ってばれてしまうようなネタなんて、映画にとって特に大切なネタじゃないし、そんなことで守られなければならないような映画なんて、もともと観る必要なんてない。ばらされちゃったほうはたまったもんじゃないかもしれないが、そんなこと知るか。ばらされてしまえ。

それはともかく、率直にいってこれは、これというのはこの文章のことだが、『誰も知らない』について書かれた文章ではないかもしれない。だが少なくとも『誰も知らない』に触発されて書かれた文章ではある。というような回りくどいエクスキューズは、これからこの映画を観る人にとってなるべく影響を与えたくない。という配慮に基づいているわけだが、そうであるならば、こんなものを書かなければいいではないか、とあなたは思うだろうか? というこのような偽装された他者への問いに見える自らへの問いは、不意に基本的ななにかを浮かび上がらせてしまう。すなわちぼくは、与えたくない、と同時に与えたいのだ。きっと。見せたくない、と同時に見せたいのだ。おそらく。伝えたくない、と同時に伝えたいのだ。たぶん。

色について書く。この映画は赤に青が混ざり紫になる話である。

まず赤だが、とその前にこれは映画館で一度見ただけの記憶に基づいて書かれているので、もしかしたら大幅な錯誤があるのかもしれないということをはじめに断っておく。そして、これから書かれる文章はあくまでも自分にとって『誰も知らない』はどのような映画だったのか、ということを検証する。という動機に基づいており、基本的にぼくの観た『誰も知らない』とあなたの観た『誰も知らない』は違う映画である。あらゆる芸術がそうであるように。という前提に立つ者によって書かれたものである。ということを強調しておく。

赤。それはもっぱら母親の「けい子」を象徴する色として扱われている。それは「ゆき」が描く「けい子」の服の色の赤であり、「けい子」の左手首に巻かれているアクセサリの赤であり、印象的なエピソードとして描かれるマニキュアの赤だ。そして、かつて歌手としてあともう一歩のところまでいった、というエピソードが語られもする「けい子」、あるいは、そのときのパートナーであった「音楽プロデューサー」である「京子」の父親によって買い与えられたとおぼしき子供用の「KAWAI」の赤いピアノとともに、それら赤は一方的に受け継がれるものとしての〈血〉の色である。

そして一方、「明」が幾度となく利用する公衆電話の扉には赤いグラフィティが描かれており、その文字はあたかも運命の赤い糸が絡まったかのように遠くからは見える(そのシーンの多くは俯瞰、または遠景で捉えられていたのではなかったろうか)。だが一度たりとも電話が「けい子」に繋がることはない。「けい子」の腕に巻かれたアクセサリとしての赤い紐がぶらりと垂れ下がりどこにも結びついていなかったように、母子の結びつきはなかば絶たれているのであって、それはこどもの側からは決して繋がらない糸としての赤なのだ。

したがって、母が娘にマニキュアを塗ることは許されてはいるものの、勝手に「京子」がマニキュアを塗ることは許されていないし、こぼれたマニキュアは床の上でいつまでも消えない〈血〉として、あるいは「京子」の小指の爪の上で、一ヶ月経ってもなお消えない〈血〉として描かれているだろう。その〈血〉の支配下においては、こどもたちは母親のいいつけを頑なに守らざるを得ず、一歩も外へ出はしない。

だがそこに「紗希」がやってくる。「けい子」の支配下にある〈赤い〉部屋に、学校でいじめられ不登校となっている女子中学生の「紗希」を象徴する色である青が混ざりはじめるころ、こどもたちは母親の禁止のことばが失効したのだ、とでもいわんばかりに、外の世界へと一斉に飛び出してゆく。

一般的にいってブルーとは、いうまでもないことだがあのブルーのことだ。それは広く憂鬱一般を指す色であり、この社会で不本意に虐げられたものが一様に帯びる種類の色でもあるだろう。と同時に、それはエスカレートしたいじめによって象徴的に殺された「紗希」の、血の失われた身体の色でもあるかもしれない。クラスメイトの手の込んだいじめによって、「紗希」はガード下の駐車場に自分が埋葬されているのを発見する。彼女は学校に通わず、しかも、いわば血も通わない、というわけだ。

青。だがその色は映画の中で決して表立って描かれてはいないように思える。それは潜在的なもので、隠された色である。というのは、「けい子」の去った部屋にはじめて足を踏み入れた「紗希」が床から拾い上げる紫色のクレヨンによって、ようやくそれとわかる、という程度にしか察知することはできないからだ。つまり「福島けい子」が遠ざかるにしたがって、それと入れ替わるようにして「紗希」が4人のこどもたちに近づいてくる。そして「ゆき」の描く「紗希」の服が、「紗希」が床から拾い上げたばかりの紫色で塗られる、ということによって、微かに青が、部屋に、そして映画に導入されるのだ。「ゆき」が、「紗希」の絵をどの色で塗ろうか迷う不思議なシークエンス。あれはいわば超ー能力的な「ブルーの共感」だ。赤に混ざる青としての、紫色のクレヨン。

あるいは、自動販売機で購入されたジュースの缶の色。

あるいは、セーラー服の襟の色。

あるいは、「明」がただひとり、冬に着ていた赤と青のジャケットによってそれを一身に体現していたともいえる。くっきりとわかたれた〈血〉と〈憂鬱〉。〈生〉と〈死〉のあいだを生きていた「明」。

もちろん「けい子」の面影をそこに見いださずにはいられない、「紗希」の援助交際による「明」たちへの援助というエピソードによって、「紗希」は4人から一時、遠ざかることになりはする。しかしながら、いまだなお個人としての生ー性を謳歌してやまない(といっていいだろう)「けい子」と対立する女性としての「紗希」は、再び彼らの元に戻ってくるだろう。

白い服を着た「紗希」と「明」が大きな赤いスーツケースを押して、モノレールに乗る。約束を果たすために空港へと向かうのだ。飛行機を見るために。

やがて紫色の夜明けがやってくる。

2005, 06, 01, Wednesday

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