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そしてまた夏がやって来る

2004,09,16,Thursday

ぼくの頭の中にはいつでもカレンダーがあって、いまこうしてそのカレンダーを頭の中に意識してみると、そのカレンダーはぼくの頭の中にありながらもぼくをまるごと包み込んでいるようにも感じられる。なんというか、ゴキブリホイホイみたいな感じだ。彼は(つまりぼくのことだが)、ぼくの頭の中のゴキブリホイホイの中にいて、もうずっと囚われている。高い塔の上で育てられたラプンツェルみたいに。

一日に一歩ずつしか進めないような粘着力のある床として、そのカレンダーは彼の見渡す限り(とぼくは想像する。これまでもそうだったし、きっとこれからもそうだろうとおもうからだ)の周囲に敷き詰められている。彼は小さな四角いマスのなかの今日にいる。明日か明後日、そして昨日かおとといくらいまでの範囲を照らすスポットライトの輪の中(というよりもきっとたぶんそれはあのゴキブリホイホイの窓からの光と同じようなものだ。そして同時にそれはぼくの想像力という窓でもある)の今日にいて、地平線の彼方の未来(出口)をおもって気が遠くなり、地平線の彼方へと遠ざかった過去(入口)をおもって途方に暮れたような気持ちになっている(ように見える)。つまりぼくの「こんなに遠くまで歩いてきてしまってもう取り返しがつかないという心細いような気分」や「あとどれだけ歩けばどこかにたどり着くのだろうといううんざりした気分」は、彼の感じる気分のフィードバックとして生じるのだ。彼の気が遠くなればぼくも気が遠くなるし、彼が途方に暮れればぼくも途方に暮れる。ぼくにとっては明日や明後日や一ヶ月後や十年後なんて存在しない。昨日やおとといや一ヶ月前や十年前なんて存在しない。ぼくはカレンダーのことが嫌いだ。いつかそいつを頭の中から追い出して、そして、彼をそいつの中から救ってやるつもりだ。長く伸びた髪が地上まで届き、いつの日か塔の下を通り過ぎる王子様的な誰かがそれを発見するのを彼は待っているはずだからだ。

つまりカレンダーが人々にもたらすものは誕生日やクリスマスといった楽しげで華やかなものではない。便利で合理的で記念日的な区分ではない。実のところそれは漠然とした恐怖なんじゃないかとおもう。そいつはぼくたちをゴキブリホイホイ的迷宮へと閉じ込める。入口から出口へと、ひとつの決まった方向に進ませる。強制的に。否応なく。

とてもいい天気なので嬉しくて思わずぼくは自転車で池袋へ行ってしまう。光の量によって、一瞬いまが夏へ向かっているのか冬へ向かっているのか、ぼくにはわからなくなったのだ。ぼくはとっさに彼に訊ねる。頭の中のカレンダーを見る。えーと。いまは9月だ。すぐにあと何ヶ月かで冬がやってくる。でもぼくにはそうはおもえない。とてもじゃないけれど。これはまるで夏の日差しそのものだ。でももちろんそれは夏の日差しではない。本当は夏の日差しであり得た、9月半ばの午後の日差しなのだ。

時間という概念は、それ自体がセンチメンタルなものなのであって、それはぼくたちのせいじゃない。いいかえれば、センチメンタルな器の中を漂うぼくたちもまたセンチメンタルな属性に浸ってしまっているのであって、そもそものはじめは、ぼくたちはそれほどセンチメンタルじゃなかったんじゃないかという気がする。でもいまではぼくたちは、センチメンタルなゴキブリホイホイの中を這いずり回るセンチメンタルな住人である。夏が終わり秋が来る。秋が終わり冬が、冬が終わり春が来る。そしてまた夏がやって来る。ぼくたちはそれぞれの夏を頭の中に思い描き、それがまた来年もう一度やってくること、しかしながら同じ夏はもう二度とはやって来ないことを知っている。同じ夏がもう二度と来ないことが、もう一度やって来る夏によって保証されているということも。それはぼくたちを前もってセンチメンタルにさせる。そういう意味でいえば、ぼくたちはもう二度と本物の夏を過ごすことはできないのだ。そしてそれはカレンダーのせいなのだ。もう一度いう。ぼくはカレンダーのことが嫌いだ。

池袋に着き、ティーヌンでトムヤムラーメンとグリーンカレーのセットを食べる。頭ではガパオライスのセットを頼むことにしよう、と決めていたのに、ぼくはグリーンカレーといってしまう。

HMVで七尾旅人『およそこの宇宙に存在する万物全てがうたであることの最初の証明』、高木正勝『COIEDA』、DCPRG『STAIN’ ALIVE/FAME/PAN-AMERICAN BEEF STAKE ART FEDERATION 2』を買う。DVD付き、DVD付き、CD-Extra。

高木正勝の映像作品は『world is so beautiful』がすごくよかったけど、今回のもよかった。世界には色があった方がいいし、動きがあった方がいいし、音があった方がいい。というオプティミスティックな確信に充ち満ちているように感じられ、とてもしっくりくる。つねに画面ではモロモロとなにかが動いていて、そこになにが映っているのかは特に問題ではないし、意味が剥奪されている。しかしながらときおり一瞬のあいだ、ぼくたちはそこに見覚えのあるものを見つける。それは砂場でなにかを掘り当てたときのような気持ち。

2004, 09, 16, Thursday

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