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アンダーグラウンド・メタレベルとしてのABC

2004,07,27,Tuesday

でもね、って青山ブックセンターのことですけど、そんなに、「特別な本屋だった潰れて哀しい畜生」とかじゃあないんですよ。もう諦めていますし、どんな本屋が潰れたって哀しいですからね。ぼくは。花瓶が床に落ちて割れただけで哀しい。だから部屋に花瓶を置かないほどです。こんなにも花が好きなのに……。だから、「潰れたんだ、へえ」と思って、実際に店の前まで行ってみたり、ちょっとなんか書いておこうかな、というくらいには、まあ特別ではあるのですが、それほどの思い入れがあるというわけでもない。ちょっと近くまで行ったから記念に見学してきたに過ぎないですよ。とあらためて否定するほど思い入れがないわけでもないんだけど……。

というわけで書くという行為は、その題材を選んだ時点で、その対象をなにか特別なものに仕立て上げてしまうところがそれはもうありすぎるくらいにあるわけです。デリダが脱構築の対象に選んだというまさにそのことによってモダンは延命してしまう云々というのといっしょで。なんてことはないふつうの人を描いたことによって日本近代文学がはじまった云々というのといっしょで。ここでぼくがいきなり二ノ宮亜美さんという女の人について長々と書きはじめたとしたらどうですか。まるでぼくが二ノ宮亜美さんに好意を抱いているように見えませんか。と二ノ宮亜美なんていう名前を出している時点でぼくはあだち充好きであることになってしまうわけです。いや実際あだち充好きだからいいんだけど。というようなことをちょっと反省したんですね。だってあまりにもナイーヴに青山ブックセンターが潰れたことに対して遺憾の意を表明しすぎだよみんな。おれもだけど。と思ってしまったのです。ネットを見ていたら。とこんなことを書いていること自体が極めてナイーヴなふるまいになってしまうねえ、これ。っておれは二葉亭四迷か。と、まあ文学部じゃないとよくわからないつっこみを入れつつ、というか文学部でもよくわからないかもしれないのだが、というかおれにだってよくわからないからみんなは気にしなくていいと思う。たまになんとなく「二葉亭四迷」とかいってみたいだけです。

でもさ、青山ブックセンターはぼくにとってふつうの本屋でした。おしまい。っていうなら、別に書かなくったっていいわけですね。いや書いたっていいわけですけど。そこのところが難しいなあと思うのです。というほど難しいとは思っていないのです。うるさいよもう。いいかげんにしろ!というわけで、言語というか書かれたものにはメタレベルが存在しないのですね。つまらないことを書くな!と書くことのつまらなさを指摘することのつまらなさ、を見事に体現してやまない2ちゃんねる的不毛さ(健全さ?)は、反ファシズム装置としていつまで有効に機能するのでしょうか。安易な暴力的メタレベルが空高く析出されてしまうような気がしてなりません。鳥のようなファシズム。というのはぼくの心の奥底に隠された個人的な願望かもしれませんが、ファシズム監視装置としてのシステムが、容易にファシズムに成り下がる、というか成り上がることがありうるわけです。ミイラ取りがミイラになる、というやつ。ってなにを書いてるのかさっぱりわからなくなりましたが、青山ブックセンター青山本店は、その立地形態によってのみならず、おそらくはその卓抜なコンセプトによって垂直下方向への本屋的メタレベルとして機能していたのだなあ、あのころのぼくにとって、とあらためて感慨深く思った次第です。アンダーグラウンド・メタレベルとしてのABC。密やかに、どこにも伸びていかない地下茎。もうジュンク堂でいいや、とぼくは思っていますよ。そしてこれはニヒリズム以外のなにものでもない。あらゆるロマン的情熱を根こそぎにして、『セカチュー』でも読んでろという時代。もうなにもかもが哀しい。哀しいことすら哀しい。奇妙に平準化され果てた大地の上に、突如として大輪の花が咲き誇り、ほかのすべての花を枯らしてしまうような結果に陥る気がしてなりません。

2004, 07, 27, Tuesday

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