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わたしたちのアル・デンテ問題

2005,10,04,Tuesday

パスタを茹でているときに玄関のチャイムが鳴った。あと30秒ほどで火を止めて、トマトソースに絡めるつもりだった。わたしは決して「アル・デンテ至上主義者」というわけではない。でもこのときばかりはわたしと鍋の中のパスタたちの運の悪さを呪わずにはいられなかった。かれらのダンスは沸騰する水の中で、いま正に最高潮に達しようとしていたのだ。一瞬、迷った末にわたしはガスの火を止めて、玄関のドアを開ける。そこには予告通りの小包を抱えた、予告通りの人間が立っていた。わたしはその男の到来を朝から今か今かと待ちわびていたのだ。だが胃の方がついに音を上げてしまった。そこでわたしはわたしの胃のために、男の隙をついて、昼食を作るつもりだったのだ。しかしいつやって来るかわからない男の隙をつく、などということは原理的に不可能な相談なのだった。しかし、なにもこんなときに来なくったっていいじゃないか。わたしはそういってやりたかった。もうちょっと早くても、もうちょっと遅くてもよかったのに。はっきりいって、隙をつかれたのはわたしの方だ。わたしのアル・デンテを、わたしたちのアル・デンテをいったいどうしてくれるのだ。そう男にいってやりたかった。でもなにもいわなかった。男はただ然るべき仕事をこなしただけなのだ。わたしたちのアル・デンテ問題など、かれにとってはラバウルの貝泥棒ほどに瑣末な事柄に過ぎないのだ。わたしはがっかりして受け取りにサインをした。

だが一度、道を踏み外した運命のやつを再びもとの軌道に乗せるのはそう簡単なことではなかった。落としたものを拾うたびに、また別のなにかがポケットから落っこちてしまう。そういう一日だったのだ。

雷撃のごとくスパゲティを食べ終えると(幸いそれほど茹ですぎにはならなかった)、ティッシュペーパーで口元を拭うが早いか、わたしは段ボールの箱を開けた。中にはトマトソースのように赤い箱。さらにその中にはモデムが入っていた。インターネットに接続するためのものだ。わたしはさっそくセットアップを開始することにした。青いコード、黄色いコード、白いコード。然るべき場所に然るべきコードを差しこむ。われながら快調だった。なにも難しいことはなかった。これで「別途送られてきた封書に記されたパスワードを打ち込めば、めでたく開通」というところまでこぎつけた。実にスムーズ。花粉の季節をくぐり抜けた鼻腔のようにスムーズ。ん?封書?とわたしは思った。そんなものは送られてきていない。なにか手違いでもあったのかな。どこをどう探してもそんなものは存在していなかった。そこでわたしははっと気づくことになる。そうか、郵便物は1階のポストに届いているんだな。わたしは急いでエレベーターで1階まで下りた。

ポストの中に封書はなかった。その代わり、一枚の紙切れがあった。そこにはこういう意味のことが書いてあった。「あなた宛の郵便物を配達しに来たが住所が正しいものか疑わしかったので郵便物は預かることにした」と。つまり、わたしの部屋のためのポストにはわたしの名前が記されていなかったため、郵便配達人が念のためにいったん郵便を持ち帰ってしまったようなのだ。どうしてそんなにきっちりした仕事をするのだ。そう思わないでもなかったが、しかたがない。それは郵便配達人の沽券に関わる問題だからだ。わたしがつべこべいうべきことではない。

わたしは急いで部屋に戻り、郵便局に電話をかけた。しかし紙切れで指定されていた電話番号にかけてもつながらなかった。「この時間は業務を行っていない。また明日かけ直せ」というようなアナウンスが流れるのだ。わたしは何度も時計を見た。どう考えてもまだ業務を行っている時間なのだ。わたしはしかたなく、郵便局の別の番号にかけてみた。今度はつながった。わたしはわたしの置かれている状況を話した。するとそれなら別の番号にかけてくれという。でもそれはわたしが最初にかけた番号なのだ。いったいどういうことなんだと混乱しそうになったが、わたしはそのことも説明した。その電話番号にかけたらこれこれこういうアナウンスが流れたのだ、と。そこでやっと担当の人間が出てきて、わたしはまた一から説明することになった。「その郵便物は確かにわたしのものだから配達してください」と。わかりました、と向こうはいった。それではあなたの住んでいる区域の配達時間は明日の午後になります、と向こうはいった。いや、ちょっと待ってください、とわたしはいった。いくらなんでもそんなに待てないと思ったからだ。なにしろもうその郵便物に書かれているはずのパスワードを打ち込むだけなんだから。そこでわたしは自分の方からそちらに取りに行ってもいいのかと訊ねた。OKだった。なにか必要なものはあるのか、とわたしは訊ねた。写真付きの、あなた様の身分を証明するものとはんこを、シャチハタでも結構ですのでご持参ください、いまから来られますか、と向こうはいった。いまから行きます、とわたしは答えた。それではそのようにこちらで手配しておきます、と向こうはいった。電話を切って、わたしは出かける準備をした。

さて、わたしには写真付きの身分証明書もシャチハタもなかった。まあはんこはどこかで買えばいい。身分証明書は、まあなんとかなるだろう。わたしは再びエレベーターで地上に降りた。わたしの郵便物を預かってくれている場所は、電話で聞いたところによるといちばん近くの郵便局ではなくて、少し遠くにある郵便局だったので、わたしは自転車で行くことにした。おお、自転車を買っておいてよかった。わたしの運命はようやくうまく転がりはじめたのかもしれない。でもそんなことを思ったのはほんの束の間のことだった。

自転車置き場にわたしの自転車は存在しなかった。でもなくなったわけではなかった。それはすぐに見つかった。自転車置き場のすぐ外の歩道に出されていたのだった。きっと管理人が余所の者が無断で駐輪したのだと思って外に出したのだ。わたしは自転車を買ったばかりだったので、まだ自転車置き場の手続きをしていなかったのだから、これもまあしかたのないことだ、こっちが悪いんだ。それにしてもなんだかみんなきっちり仕事をしすぎなんじゃないかな、などと思いながら自転車の鍵を外して乗り込もうとしたときだった。わたしはすぐにそのことに気づいて、大きくため息をついた。全身からすべての力が抜け出てゆくような感じだった。自転車の後ろのタイヤの空気が抜かれていたのだった。ただインターネットに接続したいだけなのに、いったいどうしてこんなに遠回りをしなければいけないのかと思って、わたしは涙が出そうだった。なんだかすべてがどうでもよくなって、もう二度とインターネットなどするまい、と心に誓いかけてしまった。でもそういうわけにもいかないのだった。わたしはインターネットに接続しなければならない。わたしは歩いて郵便局を目指した。でもその時点ではまだ郵便局がどこにあるのか、その正確なところをわたしは知らなかった。わたしのポケットには穴が空いているのかもしれなかった。

2005, 10, 04, Tuesday

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