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この夏初めての冷やし中華

2004,07,12,Monday

部屋のいたるところに死んだ羽虫が落ちているのだった。それは何日か前から知っていることだった。今日やっとのことで重い腰を上げ、ようやく部屋の掃除をする気になったのだ。掃除機で一匹吸いこむとまた一匹、というように羽虫の死骸は床の上のいたるところで見つかった。ここにも。またここにも。またまたここにも。というような具合に不規則に点在して死んだ羽虫は見つかった。ランダム性が描く死骸の布置は、厄介極まりないことに、痒いところに手が届かない、といった風情でまさしく無規則に散らばっていたし、不思議なことに一度掃除機をかけたはずの場所にまで再度見つかったりもした。見つけてしまうたびにうんざりしながら掃除機で不器用に一匹ずつ吸いこんでいった。見つけてしまった以上はどうしたって駆除しないわけにはいかなかった。床やテーブルの上や肘掛けいすなど、この部屋のあらゆる表面という表面が大量に噴霧されたはずの殺虫剤でいまだべたついているような気がしたが、これは自らの汗のせいなのだと思いたかった。予想以上の殺虫剤の効果、目を見張るばかりの殺傷能力は、心理的にあらゆるこの部屋のべたつきを皮膚という皮膚から回避させるのに十分で、なんだかこの部屋にいるだけで少しずつ自分にまで殺虫剤の効果が及んでしまうのではないかというような、いささか不安で不健康な気分に駆られもするのだった。かといって必要以上に入念に、神経質なほど丁寧に湿らせた布でテーブルの上を拭えば、羽虫の羽の部分だけが何枚も見つかったりした。それは一度気づいてしまうとどういうわけか途端に目につくようになる種類の物質だった。それはなにかほかのものと見間違うということがなかった。どこからどうみても羽虫の羽にしか見えなかった。真っ白なテーブルの上にもうなにも見つけられなくなっても、それでもまだどこかしらべたついているような気がして、これは本当に汗なのだと思いたかった。

網戸に引っかかって死んでいる羽虫は苦労して掃除機で吸いこもうとしても無駄だった。おそらくは網戸に吹き付けられた殺虫剤によって、網戸の向こう側で死んでいるためだった。向こうからこちら側に侵入しようとして叶わず、あるいは網戸に張り付いているあいだに動けなくなりついに最期の時を迎えた羽虫たちは、密漁に使われるカスミ網に絡まってしまった可哀想な野鳥のようだった。羽や足が網の目に引っかかるのか、こちら側からはどうしても掃除機の吸引力では吸いこむことができず、だとすればこちら側で死んでいる羽虫はどうやって部屋のこちら側に侵入したのか説明がつかないではないかとも思ったが、それは個体差によるものかもしれなかった。一部の羽虫は網の目を通り抜け、一部の羽虫は網の目に引っかかったのかもしれなかった。いやそんなことはないはずだった。網戸のあの細かい網の目を抜けられた羽虫など一匹もいなかったはずなのだ。どこかに隠された抜け道が存在していたとしか考えられなかった。あるいは窓が、小さな秘密のように少しだけ開いていたのかもしれなかった。

死骸の量は網戸の真下がいちばん酷かった。本当に酷かった。見たことも感じたこともない死の気配がそのあたりからは漂っていた。その量は明らかに多すぎた。この部屋の窓はスライド式の窓ではなく、ドアのように奥の方に向かって開くタイプのものだった。窓を開いた後で、部屋のこちら側にあって上下にスライドする網戸を閉めることができる、というタイプのものだった。だから網戸と窓ガラスの間にあるサッシの窪みに夥しい数の羽虫が折り重なるようにして死んでいた。殺到、ということばが実に相応しい様子だった。バーゲンの日のデパートの開店時や、ラッシュアワーの電車が駅に到着しドアが開いたとき、あるいは崩壊するビルから群衆が逃れようとするときのように、風船に穴が空きその一点から空気が漏れ出てゆくときそっくりの勢いで羽虫は部屋の中に侵入しようとしていた。そしてそのほとんどすべてが死んでいるのだった。侵入に成功した数少ない羽虫たちも、余計に高濃度の殺虫剤で床の上に点在し息絶えているのだった。

こんなにもたくさんの羽虫を一度に目にしたのはおそらくこれが初めてのことだった。しかもそのすべてが死んでいた。背筋が寒くなるくらいの数の羽虫は掃除機では簡単に吸いこむことができなかった。予想ではもうすでにからからに干涸らびており、実際見た目もそのように見え、これならいともたやすく掃除機で吸いこめるはずだと思いこんでいたのだが、思った以上にべたついているようだった。これは殺虫剤のせいなのだと気づいたのはかなり時間がたってからのことだった。だが数日前のあの日だけ、どうしてこんなにもたくさんの羽虫がこの部屋に侵入しようと目論んだのかについてはまったくもって謎だった。あれから羽虫など一匹たりともやっては来ないのだ。何百匹もの羽虫の死骸をすべて掃除機で吸い込むと、Tシャツの胸のあたりがうっすらと汗でにじんだ。

大量虐殺の現場をすっきりと片づけたことで、おれはどこかしら敬虔な気持ちになった。部屋の掃除が終わると、今日こそは昼飯を食べるべきなのではないかと思い、早速着替えて外に出た。15分ほど歩いて商店街のはずれにある本屋に行き、本を一冊買ってから戻るような形で定食屋に入り、この夏初めての冷やし中華を食べた。店員の中国人は明らかに声が大きすぎ、店内は明らかに冷房が効きすぎていて、外にいた時は冷やし中華が適当だと思われたのだが、注文した料理を待っている間にふつうの温かいラーメンの方が良かったのではないかと後悔するほど店内は寒かった。

2004, 07, 12, Monday

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