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いつ、いかなるときでも

2004,10,02,Saturday

そしてやっとおれの眠りの星のもとに健やかなる眠りが訪れてくれる。訪れはじめてくれる。もう会わなくなった友人が気まぐれに再び部屋にやって来るみたいにして。枕の裏側からようやく待望のいつもの懐かしい眠りの成分が滲み出してきて、おれの頭はぼんやりとその靄の中に包まれる。全身の細胞という細胞に開かれていた瞼という瞼が閉じられていくのがわかる。頭頂からつま先へ向かって順序よく。逆立っていた毛並みを優しく飼い主に撫でられて気持ちがいい猫になったみたいだ。おれはおれの身体のサイズぴったりの瓶にすっぽりとおさまってとりあえず太平洋を横断する。飼い主の手が瓶の窪みを撫でて、おれの毛並みの瞼が閉じられる。波に揺られながら瓶の色が透明からゆっくりと濁った緑色に変わっていき、やがてビール瓶のような色になる。そこから先はわからない。おれはゆったりとした気分で夢の中でも眠る。おれはここはどこだろうとおもうが、別にどこだってかまわない。メキシコシティでもカラカスでもブエノスアイレスでもどこでもかまわない。眠ることができさえすればいいのだ。おれは眠ることに決めて、眠るのだ。世界の果てででも。

やがてどこかから女の子の長い長いモノローグがきこえはじめる。おれはそのとき巨大な客船のデッキで右耳を下にして眠っていて、女の子の声はどうやら床下の客室からきこえているみたいだった。おれは耳を澄ます。

昔ね、お前みたいに白い猫を飼ってたの。でも死んじゃったの。それでもう二度と動物を飼うのは嫌だとずーっとおもってたんだけど、やっぱり猫が好きなんだなあとおもったよ。あ、火つけっぱなしだから戻るね。じゃあね。

火?とおれはおもう。すると女の子は料理室に勤めるコックか何かなのだろうか。ともあれ、猫と再び暮らせるようになってよかったじゃんとおれはおもう。世界中の、猫が好きな人たちが、いつでも猫のそばで暮らすことくらい果たされない世界なんて、どう考えたってまともではないからだ。おれはどうしておれたちは動物を飼うんだろうなとふと考える。動物を飼うことの意味について。生命と愛の本質について学ぶため、というのがおれの出した答えだ。生命と愛、なんてどこかの保険のコマーシャルみたいで陳腐な言い回しだとおもっておれは心の中で苦笑する。おれたちは動物を飼う。そして大抵の動物はおれたちより先に死ぬ。おれは昔、飼っていた昆虫が死ぬたびに庭の物干し竿の土台の下に埋めていた。その総数は何百匹にもなるだろう。今日、あらためてその庭を眺めていたら、28年間住んできてはじめて庭に銀杏の木が生えていることに気がついた。でもちょっと考えてからそんなはずはない、とおもい直す。だってその銀杏が生えている場所は、昔、物干し台があった場所なのだ。だからきっと比較的最近生えた(とはいっても少なくとも10年は経ってるはずだが)ものなのだろうが、銀杏の木が勝手に庭先に生えるものなのかどうかおれにはわからない。いやそれとも昔からずっとその木はそこにあったのだろうか。

おれたちは動物の死を受け止める。人それぞれ、さまざまな形で。大事にしていた猫が死ぬ。そしてもう二度と猫を飼わないと心に誓う。それでも、いつか再び猫を飼う日がやって来る。猫の死は交換不可能な体験である。だが愛とは、いまここにあるものを大切にすることなのだ。死んだ猫のことを思って、現に生きている野良猫を見殺しにしなくて偉い!部屋の中では飼っちゃ駄目だからアパートの前で飼うことに決めて偉い!とおれはその女の子を褒める。究極的には、はじめから交換不可能なものは存在しない、ということは、この世におけるひとつの、いや最大の救いである。おれたちは何度でも新しい猫を飼うことができる。そして愛が交換可能なものを交換不可能なものへと仕立て上げるのだ。それが愛の作用なのだ。植物の種のように、やがて一本の木に育って土に根を下ろす。いつ、いかなるときでも、人はなにかを愛しはじめられる。いつでもまだ手遅れじゃないのだ。それがおれたちの生を駆動しているのだとおれはおもう。まだ愛していないものがこの世にはたくさんあるからだ。

そしておれがはっきりと目覚めてカーテンの隙間から外を見たとき、夢の中では女の子だった女の人が夕食の支度をしに、白い猫に軽く手を振ってアパートの部屋の中へと戻っていくところだった。

2004, 10, 02, Saturday

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