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遠くを見ること(北海道三日目)

2004,11,16,Tuesday

ホテルの回転ドアを出ると雪が降っていた。昨日の夜からずっと降り続いていたのかもしれなかった。それともどこかの時点で一度止み、それからまた再び降りはじめたのかもしれなかった。あるいはどこかの時点で一度止み、それからまた再び降りはじめ、そしてどこかの時点でもう一度止み、それからまた再び降りはじめたのかもしれなかった。眠っているあいだに間氷期が終わり、地球はヴェルム氷期以来一万二千年ぶりの氷河期を迎え、あらゆるものが吹雪の中で凍りつき、氷づけになり、その動きを完全に停止し、だがぼくたちが目覚める少し前にはその氷河期も終焉を迎え、吹雪は弱まり、ピーク時から較べたら雪も次第にまばらになって、その朝、地球は人知れず新しい間氷期の中にいるのかもしれなかった。

とにかく前後の文脈はどうであれ、ホテルの外は雪だった。灰色に塗り込められた空からは、その灰色には似つかわしくない白さと冷たさの羽毛のように軽い物質が間断なく落ちてきて、あらゆる平面に層をなして堆積し、天から地への経路を平均的には垂直に通過することによってそこにある熱を次々と奪い、間接的にぼくたちの身体を凍えさせた。ところかまわず付着し直接的にぼくたちの身体を震えさせた。視界を全体的に白くさせ、吐息を白い薔薇に変えさせた。コートの上で液体と化して繊維に浸透したりせず、そのままの形で、風や、歩くときの上下動や、ぼくたちの息で吹き飛ばされるのをそこで待つ雪片は、地面に落ちればすぐに他の雪片と見分けがつかなくなるはずだった。つまりぼくたちは邪魔者だった。重力という愛の力で地上と雪とは引かれ合っており、ぼくたちは馬に蹴られて死ぬべきだった。

もしかしたらもう一度ホテル内に戻り、さっきとは別の仕切りから回転ドアを外に出れば、その世界では雪は降っていなかったのかもしれない。むすうに存在する並行宇宙のどこかでは、その日札幌は快晴で、11月にしては珍しく汗ばむ陽気であったのかもしれない。

でもとにかくそのときぼくたちがホテルの外に一歩踏み出したときに属していた宇宙では、札幌の街は今まさに雪に降られており、しかもいつまでもそれは止みそうになく、しかしながらチェックアウトを済ませたばかりのぼくたちはもう二度とホテルの部屋に戻ることを許されてはいなかった。北海道での最後の一日は雪の中で過ごさなければならない。つまりはそういうことだった。

「寒い」とぼくはいった。「寒い」とグリコもいった。そのような意見の完全な一致は、たぶんその場所が寒いという素朴な事実を告げていた。ぼくたちはまだホテルを出てひとつめの横断歩道を渡ったところだった。でも必要以上に声高に「寒い寒い」と連発するわけにもいかない。あんまり簡単に寒がっているとなんだか負けみたいだからだ。つまり犬のように喜んで庭を駆けまわったり、かといって猫のようにこたつで丸くなっていたりするわけにはいかないのだった。ここは北海道で、人々は雪にも寒さにも確実に慣れているようだったし、雪が降っていても何食わぬ顔をして、みんなけっこう薄着で歩いていた。そしてぼくたちが手放しで入ることの許されるこたつは、半径800キロ以内には存在しなかった。

頭では雪が降って嬉しいと思っていた。でも身体は如実に寒さを訴えていた。この寒さに対して、頭は速やかになんらかの対策を身体のために講じる必要があった。ぼくたちの頭は傘を買うことに決めた。100円のビニール傘を2本だ。ぼくの頭は一本あればいいといったのだけれど、グリコの頭は二本あった方がいいといったのだ。

そういえば仙台旅行のときにも我々は傘を買った。旅先で傘を買うというのはなんとも損をした気分になるものだ。旅先で天候が優れないということだけで、ただでさえ損をした気分なのに。ぼくは傘が嫌いだ。人が傘をさしている状態をサーモグラフィーで捉えたら、きっと曲げられた肘のあたりがすごく間抜けな感じだと思うのだ。しかも傘というものは、誕生日にお呼ばれしてファンタを出されたのに「僕、炭酸は飲まないことにしているんです」といって持参した水筒からほうじ茶を飲む小学生みたいな感じがする。健康的でお行儀もいいのだけれど、なんというか潔さが足りない気がするのだ。

結局は「雪なら傘だ」という短絡的なその買いものについて一日中後悔することになった。ぼくたちはほとんど傘をささなかったからだ。北海道の雪はべちゃべちゃと水分を多く含んだ東京の雪とは違って傘の必要性を感じさせないさらさら加減だったし、なによりほとんど誰も傘をさしていない街で傘をさして歩くことに対する抵抗があった。気がついてみると傘を使っているのはぼくたちだけだった。東京人丸出しだった。傘を持っている人さえほとんどいない。ぼくたちはふたりともただちに傘をすぼめた。傘はただちにすぼめられた。札幌の街で傘をさして歩くことはどこかしら異端的で不穏当な行為ですらあるように思えた。

傘をささないで雪の中を歩くのは、考えてみればすばらしいことだった。なによりも気分がよかった。さしたくもない傘をさして歩こうとしていたなんてなんだかバカみたいだった。潔さが足りないのは自分の方だった。

というわけでぼくたちはやっとのことで札幌駅にたどりつき、重たい方の荷物を駅構内のコインロッカーに預けて夜までの時間を過ごすことにした。空港へ行くときにはどうせ札幌駅に戻ってくるからだ。そしてコインロッカーに荷物を預けたときにいつも感じることになるふたつの不安をぼくはただちに感じることになった。ひとつめは「鍵をなくすかもしれない」というもの。もうひとつは「コインロッカーの場所を忘れてしまうかもしれない」というものだ。

できることならぼくは一日中そのコインロッカーの前に立ち尽くしていたいくらいだった。鍵を握りしめて。でもそんなわけにはいかない。そんなことなら北海道になんて来なければいいのだ。

それからぼくたちは買った傘を杖にして歩いた。もうたぶん傘をさすことはないだろうとわかってはいたけれど、なんとなく買ったばかりの傘を手放す気にはなれなかった。グリコは「もうささないし、どっかに置いてこうよ」といったけれど、ぼくにはそれは間違ったことであるようにおもえた。いくら100円のビニール傘であってもだ。ぼくのいっていることはたぶんめちゃくちゃで、ただあまのじゃくに過ぎない恐れも十二分にあるけれど、とにかくぼくは札幌にいるあいだはその傘を持って歩くことに決めたのだ。

まずは昨日観ることができなかった赤レンガ庁舎に行った。昨日もここに来たことは来たのだけれど、雨が降りそうだったので羊を優先して建物の中を見学しなかったからだ。昨日も来たのに、ぼくたちはまた道に迷った。ぼくは碁盤目上の街が苦手なのだ。自分がどっちを向いているのか、すぐにわからなくなってしまう。そして基本的に適当に歩き回るので、疲れて機嫌も悪くなる。しかも絶対に人に道を訊かない。たぶん旅行に向いてないのだろう。

そのようにしてようやく赤レンガ庁舎にたどり着いた。敷地内には池があり、どういうわけか立ち入り禁止になっていた。池のまわりにはところどころ切り株があった。木を切り倒してなにか工事でもするのかな、とぼくは思った。池の周囲をぐるりと取り囲む白いビニールの紐を無視して池のそばまで行き、寒そうなアヒルやカモの写真をたくさん撮った。ぼんやりと『ライ麦畑でつかまえて』のことを考えたりした。それからやっと建物の中に入った。古びていて感じのいい建物だった。こんなところで役人が働いていたなんて、なんだかうまく信じられなかった。この旧庁舎は今では博物館のようになっていて、北海道に関係のあるさまざまなものが展示されていた。キツネやシカやウサギやアザラシなんかの剥製まであった。窓から外を見ると、晴れているのにたくさん雪が降っていた。すごく変な天気だった。

というわけで傘を持つ方の手が寒かったし、写真を撮るための指が寒かった。我々はパルコに行って手袋を買うことにした。そして昼食にスープカレーを食べた。パルコでは新庄剛選手の写真展をやっていた。昨日、電車のつり革広告で見かけたやつだ。そんなもの特に見たくはなかったけれど、とりあえず覗いたりした。

建物から外に出ると雪はいっそう激しさを増していた。ぼくたちは中島公園にある北海道立文学館に行くつもりだった。歩いていこうか迷ったけれど、結局はタクシーに乗った。ぼくたちは運転手に地図を見せた。文学館がどこにあるのか、タクシーの運転手でもよく知らないのだ。歩いて行くなんてぜんぜん無理な距離だった。「今年は北海道にも台風が来たでしょう」と運転手さんがいった。「そのせいで中島公園にある木の半分が倒れてしまったんですよ」

2004年9月8日、前月28日にマーシャル諸島近海で発生した台風18号(SONGDA)は、暴風域を伴ったまま北海道西海上を北上し、午後3時、宗谷海峡で温帯低気圧となった。発生からその間、SONGDAは日本列島北側に寄り添うように北上し、各地に甚大な被害をもたらすことになる。これは1991年の台風19号とほぼ同一のコースをたどっており、それはつまり1954年の洞爺丸台風ともほぼ同一のコースをたどっていることを意味していた。つまり日本列島は北から南まで(時間的順序でいえば南から北まで)広範囲に渡って被害を受け、しかもそれが多大なものになるということをそれは意味していた。九州北部から山陰沿岸の日本海を早い速度で通過すると、水蒸気供給の遮断や陸地との摩擦などによる台風の消耗が少なく、勢力が衰えぬまま北上することになるためである。日本列島にとっては悪夢のようなコースを、なにかの嫌がらせみたいにしてSONGDAはたどった。まるでそのルートが台風たちのあいだで知れ渡っているみたいに。台風が過ぎ去った後には、「爪痕」という表現が単なる比喩ではないような種類の被害がいたるところで散見されることになる。

9月5日、SONGDAは沖縄本島を直撃。台風の中心にほど近い沖縄県名護市では気圧924.4hPaを観測する。この数値は沖縄本島では観測史上最低の気圧であり、沖縄県内でも歴代4位の記録だった。翌々7日、広島地方気象台は観測史上最高の最大瞬間風速60.2mを記録。九州電力・中国電力とも100万戸以上が停電する事態となる。厳島神社の国宝は倒壊し、青森では8万トンのリンゴが落ち1万本のリンゴの木が倒れた。8日朝、北海道に接近したSONGDAは最大瞬間風速50mを記録し、街路樹をなぎ倒し、有名な北大のポプラ並木をなぎ倒し、ハルニレをなぎ倒した。テレビ塔のトタンは剥がれ落ち、風に乗って飛んでいった。公園や街路などの倒木は札幌市が管理するものだけで約一万八千六百本にも上った。そしてそこにはもちろん中島公園の木々も含まれていた。

公園内のいたるところに切り株があった。赤レンガ庁舎の池のまわりと同じだった。たぶん台風で倒れてしまった木を仕方なく伐った跡なのだろう。よく見てみると、枝が途中から切り落とされている木もたくさんあった。もしタクシーの運転手が台風の話をしなかったら、ぼくにはその切り株がなんなのか、きっとさっぱりわからなかっただろうと思う。雪はむすうの切り株の上に、傷口を癒すガーゼのように降り積もっていた。

さて、北海道に来てふたつめの文学館は、小樽とは比べものにならないくらい立派な、新しい建物だった。小樽は小樽で親しみやすく家庭的な雰囲気のすてきな文学館だったけれど、こちらは何千年も前に滅び去った文明の、しかも極度に限定されたマイナーな文化のひとつをこれでもかとばかりにフィーチャーしたみたいな、建物の割にはこんな内容なのってどうなんだ?みたいな感じでとてもよかった。これを置くのにこの建物を建てるんですか?本当に?冗談じゃなく?みたいな感じでよかった。ディズニーランドには本物の鼠はいません!みたいな感じでよかった(自分でもいっててよくわからないのだけれど)。ほとんど人がいないのもよかった。あとはなんか忘れたけどよかった。雪がたくさん降っているのもよかった。なによりすごく静かなのがよかった。

文学館を出ると、いつも不思議な気持ちになる。これはことばで説明できそうにない。つまりことばで説明できそうにないような気持ちになる。

文学館を出ると、ぼくたちは中島公園を散策した。もうどこもかしこも真っ白だ。嬉々としてグリコは写真を撮りまくっていた。グリコも、カメラも、真っ白な広場の真ん中で犬の散歩をしているおんなのこふたり組も、犬も、みんな寒くないのだろうか。寒さに弱いぼくは降ってくる雪だけでもとりあえず避けようとあずまやに腰を下ろす。でも寒い。思い出したように手にしていた傘をさしてぼくはグリコを追いかけた。

それからなんだっけ。タクシーに乗って、歩いて、電車に乗って、歩いて、電車に乗って、歩いて、空港に行って、歩いた。その合間にコーヒー飲んだり、おみやげ買ったり、なに食べるかでもめたり、鮨食べたり、「寒い」といったり、札幌にさよならしたりした。最後の最後で傘を路上に置いてきた。そしてまた飛行機に乗った。そのあいだずっと雪が降っていた。そして誰も雪が降っていることを気にも止めていなくって、みんな薄着で、親切で、元気そうで、幸せそうだった。雲の上で、もちろん雪は降っていなかった。

飛行機がはじめてだったぼくのために、グリコは帰りの飛行機を夜にしてくれたみたいだった。夜の飛行機もいいよ、というわけだ。なるほど、とぼくはおもった。だから夜の便で帰ることになっていたわけだ。なるほど。飛行機初心者にとってみれば心憎いまでの演出だ。

だから夜の飛行機からの眺めについて。

北海道から東京まで日本列島上空はずっと晴れていた。だからむすうの灯と光が見えた。ただ残念なことにぼくたちの座席は左側の翼の真上に位置していた。ぼくは再び窓際の座席にしてもらい、決して開くことのない窓越し、視界をなかば以上遮る翼越しに90分間地上を凝視し続けた。もしできることなら念力で翼を叩き折りたいくらいだった。本当に邪魔なのだ。雲ひとつないだけに、翼がそこにあるのは不運としかいいようのないことだった。どうして!こんなに見たいのに!!

きっとパイロット仲間のあいだでは、こういう視界のいい夜のフライトを指すことばがあるんじゃないかなとぼくは想像した。今日は××××だったよ。超楽、超気持ちいい。そりゃよかったね。おれなんか最悪だったよ。まったく××××じゃなかったよ。……みたいな感じ。

ぽつんとひとつのちいさな灯がいくつも集まってゆき、やがて大きな集まりになる。街だ。あそこに人がいるんだなあ。ほんとかよ。とぼくはおもう。街、というよりも光の集落といった感じだ。そして水平方向にはオリオン座があった。地上に人がいるっていうならあそこにも人がいたっておかしくないよなあとぼくはおもう。

もし本当に飛行機の中が真っ暗になったら、ぼくはどっちが空でどっちが地上なのかわからなくなったかもしれない。もちろんこれはいいすぎだ。でも少なくとも天と地はどこか目に見えない空中の一線でシンメトリックに広がっている、というような感覚にぼくはとらわれた(一線というよりも、ただ一点で、全方位的にシンメトリックな構造を成しているのではないか、曼荼羅のように、という考えは却下した。それはあまりにも『世界の中心で愛をさけぶ』的すぎる。ぼくたちの愛は、この場所を、ここを、世界の中心であると叫んではならないのだ)。そこでは飛行機の航行空間は、巨大な光のサンドイッチの具材のようになる。地上の夜というパンと、夜の上空というパンとのあいだを、水平移動するサンドイッチの具として飛行機は飛んでいくのだ。ぼくたちはツナやハムだった。あるいはジャムやタマゴだった。それともBLTだったかもしれない。あとはなにがあったっけ?

飛行機は本当に進んでんのかな。地球が回ってるだけなんじゃないのかな。とぼくは思う。とにかく雲の上でも重力が働いているというのは実に不思議な気分だった。「重力!重力!」と思わずにはいられなかった。

ときどき大きな街の上空を通過すると、それは流星群と同じくらいにぼくの目を惹きつけた。人間が都市を形成するときに参考にしたのは実は夜空なんじゃないのかなとぼくはおもった。地上は、まるでたくさんの天の川が流れているみたいだった。掛け値なしの美しさ。そして星とは宇宙にちりばめられた豆電球であり、かつて栄華をきわめたに違いないどこかの惑星の文明が宇宙旅行のために打ち上げた発明品なのかもしれなかった。星々を結びつけて、そこになんらかの像を見いだす、という順序なのではなく、その未知の惑星の画家が描いた絵を頼りに星の位置は決定されたのかもしれない。などといった妄想が果てしなく続くのだった。青空と比較して、夜空には想像を差し挟ませる余地があった。

それからあっというまに飛行機は東京上空にたどり着く。東京上空いらっしゃいませ。ふいに機内の照明が落ちる。なんのアナウンスもなされないが、空から見る東京の夜景をどうぞご覧ください、とでもいうわけなのだろう。飛行機初心者にとってみれば心憎いまでの演出だ。確かに、とぼくはおもう。確かに、夜の東京は美しい。ちょっと感動的ですらある。でも……。

東京の夜景とかやなんかをきれいだなと思うとき、ほんとはどうなんだろうとぼくはいつも思う。というか、これをきれいだと思うということは、どういう心の作用なのだろう、と思う。きれいなものはきれいでいいじゃあないか、なにをつべこべいってやがるんだ、と思わないでもないのだけれど、そこにはどうも別のなにかがあるような気がしてならない。なんだか「とりあえず、きれいということにしておこうか」というような判断の保留が心の片隅にある。ような気がする。心の底から、あれを美しいと思うことにかなり抵抗がある。それをただ単に美しいと思うには、あまりにも犠牲が大きすぎるような気がするのだ。その犠牲こそが美しさなのだ、という意見もあろうかと思うが、ぼくはそんな美しさならいらないんじゃないかなとちょっとだけ思うのだ。

あるいはぼくはただ単に「夜景=きれい」というイデオロギーにしたがっているだけであり、それ以外の感想を言語化できていないのではないか、という疑いもある。要するにそれは人類がここ最近はじめて見た(見はじめた)景色(といっていいだろう)なので、それを目の前にしてぼくはどう思っていいのかわからないので、これはきれいなんですよ、だからきれいだと思っていいんですよ、と誰かにいわれたそれを鵜呑みにして安心してみんなといっしょになって「きれいだね」と確認し合っているところがあるみたいな気がする。でも「夜景=きれい」というイデオロギーにしたがっていない人から見たら、「なんなの!あの明るい街!バカみたい!バカ!どう考えてもバカ!」と思うかもしれないし、こんなに夜が明るい街なんて非エコロジカルなだけであっていつの日か時代遅れになって非難の対象になったりもするかもしれないし、テロの対象にだってなるかもしれないわけだ。なんだったんだろうねあのバカ騒ぎは、と。夜なんだから寝ればいいのに、と。

そしてそもそも夜景といえば「百万ドルの」とか「宝石箱をひっくり返したみたいな」とかいう形容や比喩と共に用いられがちなのであって、「夜景=きれい」という価値判断はつまるところ「高価なものほど美しい」という経済至上主義的な価値判断の変奏にしか過ぎないのだろうか?というようなことがいいたいのではなくて、「きれい」以外のことばも差し挟まなくちゃいけない、と思うのだ。差し挟んでいかなくちゃ、と。うっかり忘れるとこだったけど。夜景とはいったいなんなのか?その光は、たとえばどんなメッセージなのか?そこに非常に高価なものが存在する、という意味以外に。

なんて思うのは飛行機が着陸態勢に入ってどんどん高度を下げてまぎれもない東京が視界に飛び込んできて遙か上空から見たときには大小色とりどりの抽象的だった光がそれぞれ固有の光に還元されはじめてまるで夢から覚めるように光の意味が変化してからの話で、夢から覚めたその先にまた別の違った夢の世界が広がっているような気がしてぼくはなんだか目眩がすると共にそれが旅の終わりを意味することも手伝ってちょっと感傷的な気持ちになる。東京。遠くは知覚できたのに、まだ近くが知覚できないのだ。ぼくは東京に降り立った。さっき見えてた光の中に。という感じがまるでしない。「ここはどこなんだ?」とまでは思わないけれど。時差なんてないのに、ぼくはなんだか時差ぼけになったみたいだった。時差ぼけになんてなったことないのに。

行きと同じようにリムジンバスに揺られ、ぼくたちは帰途につく。ぼくはずっと窓の外を見ながら帰る。旅行の間中、ぼくは乗り物に乗るたびに窓の外を眺め続けた。すばらしい虹を見ることができたのはそのお陰だといってもよかった。当初の予定では空港までのバスや、飛行機の中、空港から小樽までの、小樽から札幌までの、札幌から空港までの電車、および東京までの飛行機の中で、ぼくはずっと眠っていくつもりだった。ずっとずっと眠っているつもりだった。睡眠不足をなるべく解消して、旅先で存分に動けるようにするためだ。でもぼくはほとんど眠ることをしなかった。その土地土地にたどり着いてからよりも、ぼくにはそこにたどり着くまでの方が興味深かった、ということなのだろうか。なんでこんなに窓の外を見るのが好きなのだろう、と自分でも呆れるほど、不思議に思うほど、ぼくはそれぞれの速度で流れ去ってゆくそれぞれの景色に魅了されていた。

でもそうじゃなかったんだ、とぼくは帰りのバスの中でとつぜん気づく。好きだから窓の外を見ていたんじゃない、と。ぼくはバスの中で、なんだか子供のころに戻ったみたいだな、とずっと思っていた。なぜならぼくは子供のころ、乗り物に乗ることになるたびに、それこそ齧りつくようにして窓の外を執拗に眺め続けていたからだった。ぼくはいつも乗り物の中で「遠くを見ること」を課せられていた。そしてそれは端的にいって、乗り物酔いを防ぐためだったのだ。

ぼくは高校に入るくらいまで乗り物酔いがひどくて、遠足のたびに憂鬱だった。いつもどこかに出かけるのがいやだった。どうして遠足などといったものがあるのだろう、と毎回のように思っていた。教室でいつも通り授業していればいいじゃないか、と思っていた。当日の朝まで遠足に行くことを渋り、どうにかして休むことはできないだろうかとベッドの中で考えているような子供だった。でも結局ぼくは遠足を一度もさぼらなかった。そして遠足に行って帰ってくると、手のひらを返したように、必ず「行ってよかったなあ」と思うのだった。行って帰ってくるまでは、行ってよかったと思うことはできないのだから、これは仕方のないことだった。

小学校三年生の時に、ぼくはバスの中で吐いた。たしか多摩動物園への遠足だったと思う。ぼくの住む地域から多摩動物園までなんて、いまにして思えば大した距離ではないのだけれど、そのときは駄目だった。バスが目的地に到着する寸前でぼくは吐いた。もう少しだったのに。なんて考える余裕はなかった。隣に座っていた友達のズボンに、ぼくの吐いたものがかかったんじゃなかったかと思う。そのとき風邪気味だったということを考慮しても、いま考えてみたらひどい話だ。たしかにぼくはそいつのことがあまり好きではなかった。名前順でそいつと隣り合うことに決まってしまったのだ。でもだからといってわざと吐きかけたりはしない。きっとどうしても我慢できない種類の、突発的な吐き気が襲ったのだと思う。そしてバスが駐車場に止まるや否や人気のないところへ走り、ぼくは再び吐いた。ぼくはあのときの感じをいまでも覚えている。その日は雨が降っていた。あるいはいまにも雨が降り出しそうだった。あの、ひとりぼっちでしゃがみこんでいる感じ。ごつごつとした、砂利というには大き過ぎる石が靴の裏に当たる感じ。それから後の人生で幾度となく繰り返すことになる、あの吐くとき独特の姿勢。みんなの列から離れて、ひとりで胃の中のものを吐き、それから何もなかったかのようにして列に戻ったときの、あの感じ。

グリコは隣で寝息を立てていた。バスは目的地に向けてひた走っていた。夜の高速道路を、まるで利口な犬みたいに。あの、出発した日の朝、中年のカップルがいちゃついていたホテルの前に向けて。ぼくはもうかれこれ二十年近く前の遠足の日のことを思い出していた。そしてもう自分は乗り物酔いをすることはないのだと思った。「乗り物酔い」ということば自体、なんだかとても懐かしいくらいだった。そしてぼくは少しだけ眠った。目的地までは、本当にわずかな時間しか残されてはいなかった。

2004, 11, 16, Tuesday

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