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羊をめぐる冒険(北海道二日目)

2004,11,15,Monday

朝食を食べ、小樽を後にする。二日目の滞在地、札幌へ向けて出発する。やがて列車の窓から海が見えはじめると、昨日、空港から小樽へやって来るときにもそういえば海が見えたんだったとぼくはおもいだす。すっかり忘れていたのだ。

うとうとしているグリコに「海!海!」とぼくは教える。昨日はしっかり眠っていた彼女はこの線路を走る列車から海が見えるということをまだ知らなくて、どうして昨日起こさなかったの、とぼくは軽く怒られる。こっち側に座ってよかったねえ、とぼくはいう。今日の方が昨日よりも海側の線路で、さらにぼくたちは新幹線タイプの、進行方向左側の座席に座っており、左手に広がる海を眺めるのには正にうってつけといってよかった。

ぼくたちは海を見る。なんだか海を眺めるために走らせたんですよ、とでもいうように、執拗に海岸沿いを列車は進む。ぼくは頭の中に北海道の地図を思い浮かべる。でもいったいどのあたりを自分が移動しているのか、さっぱり見当がつかない。北海道の地図が頭の中に入っていないからだ。といっても東京にいるときだって似たようなものだけれど。

海はいつもおもっている以上に広い。と海を見るたびにおもう。だからたぶんきっと本当に海というものは見るたびに広がっているのだ。とまではいわない。でも海を見るといつも「海はいつもおもっている以上に広い」とほぼ自動的にぼくはおもうのだし、きっと、なんらかの理由で、ぼくの頭の中にあるのは過小評価されこぢんまりとコンパクトにまとめられた海なのだ。申し訳ないけれど。右目と左目のあいだの、おでこのあたりの範囲内に漂う狭い海。あれ?でもさ、ほんとに海は広がってるんじゃないのかな?温暖化で。氷が溶けて。じゃあいいんじゃん。おれ、正しいんじゃん。ってよくないけど。ともいえないかな。わかんないや。ともあれ、海だ。とぼくはおもう。

それからぼくは飛行機から見えた海のことをおもい浮かべる。空から見た海にはひとつも波がなく、鏡のような水面に、まるでフケみたいに見える白い点をいくつも浮かべていた。とても信じがたいことだけれど、あれはたぶん船なのだ。そしてこのこと、つまり、遠くから見るのと近くで見るのとでは同じものでもまったく別のものに見えることが、ぼくたちの認識能力と命名行為とのあいだの良好で安定的な関係(良好で安定的な幻想)に終止符を打ち、そもそも同じ名前とはいったいなにを意味するのか?という問いへとぼくたちを誘うのだ。そして、そもそも、名前とはなんなのか?

だって空から見たら船は本当に船よりもフケに似ているし、だからといってあれは巨人の頭部から雪のように舞い降りたフケなのである、だから雪もまたフケなのである、ぼくのフケもだから雪。などという早急な結論にいたってはならず、ぼくたちは飛行機の窓から地上を見下ろしている、という状況の中で、あれが陸、あれが海、あの海の上に浮かんでるフケっぽいのは、濃紺のセルロイドの下敷きに振りかけたモッツァレラチーズみたいなフケっぽいのはなんだろうな、まさか船?船だ!船!という風にあれを船であると見なすに至る。そしてそこには驚きがあり、旅とはその驚きのことなのだ。いつものあれがこんな風に見える!こんなだ!という驚き。同じものがまったく違うものに見え、馴染み深いものもはじめて見るような気がする、ジャメビュというやつだ。その驚きは主に移動によりもたらされ、ぼくたちは船がフケみたく見えることを喜ぶ。これから先、ぼくはフケを見るたびに船のことをおもうようになるだろう。ならないかな。

その移動はいってみれば子供から大人への移動、命名する「父」という絶対的権力からのささやかな逃走の試みを意味するのであって、とりあえずぼくたちはあらかじめ名づけられた世界で名づけられる一方であるのみならず、新たに世界を名づけることも、名づけ直すこともできるのだ、という可能性の獲得なのだ、旅とは。もちろんそこにも問題はある。なぜなら……なぜなら、新たな命名はたちどころに古い名前に取って代わり、まったくなにごともなかったかのように波風ひとつ立てず、結局は何食わぬ顔をして王の座に着くことになるからだ。そんなはずではなかったのにもかかわらず。つまりミイラ取りがミイラになる形でしか、ぼくたちは大人になれないみたいなのだ。ぼくたちはやがてその目新しい風景にも飽きてしまい、そこには権力のみが残されることになるだろう。だから、もっと中間的な、もっとマイルドな、もっと再帰的な、もっと一時的な、もっと暫定的な、もっとアンチ・エディプスな、もっと歴史修正主義的な、そしてその修正がユーモアたり得るような、もっと違った、もっと素敵な、もっと幼稚な、もっといままでにない大人のなり方ってないのだろうか。ぼくには王が、いつでも王であることによってのみ王の座に着いているとしかおもえない。王は昨日も王だった。だから今日も明日も王は昨日と同じように王だろう、というわけだ。ぼくの考えでは、王様はイス取りゲームをするべきなのだ。

それからぼくは虹を発見する。「虹!」とおもわずぼくは叫ぶ。だってそこに虹があるのだ。「虹!」と叫ばないわけにはいかない。「虹!」。どこどこ?とグリコはいう。あそこ!とぼくは指をさす。すごく薄いけど、すごく大きな虹だ。

海にかかる虹というものをぼくははじめて見た。あれほど巨大に輪を描く虹を見たのもはじめてのことだった。そもそもグリコにいたっては虹をはじめて見たらしい。なんてことだ!虹は時間の経過にしたがってその色を、はじめは見間違いかとおもわれるほどゆっくりと濃くしてゆき、その輪郭を確固としたものへと変えていく。眠い目をこすりつつ列車に揺られていたグリコも虹を見たことで一気にテンションが上がる。写真を撮りまくる。旅先でこんな立派な虹が見られるなんてほんとに運がいい、北海道にきてよかった、とぼくはおもう。虹を見ているときに感じる、あのことばを排した気持ちを、あえてことばを介した気持ちに置き換えてみたらどういうことになるのだろう、と考える余裕があるほど長い時間(といってもものの15分程度だが)虹は存在して、そして見えなくなる。見えなくなった途端、さっきまでそこにそれがあったことが信じられなくなる。

限定された場所と限定された時間にしか生じない束の間の現象に居合わせること。が、人を昂揚させ、感動させるという事実。なんて書くと椎名誠あるいは池澤夏樹みたいだけれど(実は読んだことないのでイメージだけでいっているが)、とにかく、要するにぼくは虹を見るとすごく嬉しい。大人になってからの方が嬉しさの度合いは高まったようにおもう。あらゆることが限定された場所と限定された時間にしか生じない束の間の現象である、という素朴な事実を虹はおもいださせてくれるし、そういうことをときどきおもいだしておかないと、ぼくはまるで時間が存在しないかのように暮らしてしまうのだ(そこには哀しみさえ存在せず、そういうときぼくは自分の顔がコンクリートになった気がする)。

実は5000万円払って虹を用意しておいたんだよ、とぼくはいう。

「間に合ってよかった。もう少し小樽を見学したい、といわれたらどうしようかとおもった。この時間に予約しておいたから」
「嘘でしょ」とグリコはいう。「でもこの電車に乗らなかったら見れなかったねえ」

ぼくはあのとき自分がそういったことをよく覚えていて、ぼくが自分のいったことを覚えていることはとても珍しいことだ。でもどうして5000万円なんだろうな。5000万円の虹。大きな大きな虹。

それからやっとぼくたちは羊を発見する。

ぼくたちが北海道に行ったのは、背中に星の形をしたあざのある羊を見つけ出すためだった。黒服の秘書に命令されたのだ。というのはもちろん冗談だけれど(村上春樹の『羊をめぐる冒険』の話です。念のため)、ぼくたちは羊がいるだろうとおもって「羊ヶ丘」というところに行き、でも天気が悪いからなのか、シーズンオフだからなのか、羊はどこにもいなかったのでとてもがっかりした。柵で仕切られた草原に羊が放牧されていると信じて疑わなかったのでかなり残念だった。そこから見える景色の中に羊がいないことの方がむしろ不自然なくらいに、いかにも羊がいそうな感じの場所だったのだけれど。そしてクラーク博士の脇から、どう考えても景色的には邪魔な札幌ドームを眺めていると、あっというまに雨が降ってきた。天気予報の通りに。

バス乗り場からいっしょだった白人の青年に、ぼくはなんだか申し訳ないような気分だった。彼はどこか遠い異国の地からはるばるこの日本という国にやって来て、なんの因果か北海道という場所に趣き、電車やらバスやらを乗り継いで、ここ「羊ヶ丘」までたどり着くこととなった、のかもしれなかった。少なくともたったひとりで、ということだけは確かだ。「羊ヶ丘」にやって来て、でもそこに羊はいない。しかも雨にまで降られて、彼はぼくたちと同じように傘を持っていなかった。ぼくたちは閉じ込められる。「羊ヶ丘」の売店に。なにしろ、まだあのクラークさんと記念撮影さえしていないのだ。雨が止むまで、とはいわず小降りになるまで待つしかないではないか。白人の青年がぼくたちのひとつ向こうのベンチに腰をかける。ぼくは一瞬だけ彼と目が合う。「やれやれ、羊なんかどこにもいやしないじゃないか。かといって羊がどうしても見たかったというわけでもないんだけどさ」というような顔をして彼はガイドブックを眺めたりしている。ぼくはひとことでいいから声をかけるべきだったのかもしれない。でもそのひとことが、どうしてもぼくには思い浮かばないのだった。

ひとしきり売店で過ごし、いても立ってもいられなくなり外に出る。ビールを飲むには寒すぎるのだ。陽は落ちて、小降りになったとはいえ吹きさらしの丘の上で、ぼくたちは凍えそうだった。それでもどういったわけか散策をやめなかった。マフラーを巻いて、売店のある建物の裏側へまわってみる。
誰もいない。
やがて雨がやむ。
まばらに生えた白樺の向こうは見渡す限り緑の丘で、羊を囲い込むための柵が設けられ、その奥には鬱蒼とした林が稜線を描くように広がっていた。いまにも羊男が顔を覗かせそうな雰囲気だったが、残念ながら彼はこの林に住み着いてはいないようだった。そして羊はここにもいなかった。ぼくたちはあきらめて「羊ヶ丘」を立ち去ることにした。

バスの時間にはまだ早かった。ぼくたちはもう一度だけ展望台から札幌の街を見下ろしておくことにした。その手前には「さっぽろ雪祭り」の資料館があった。時間潰しにちょうどいいとおもい、ぼくたちはそこに入ろうとした。そのとき、資料館の脇の薄暗い奥まった場所にある一軒の小屋が目に入った。はじめてそんなところに小屋があることに気がついた。あそこになにか建物があるよ、とぼくはいった。ぼくたちはその小屋の近くへ行ってみることにした。

そこにいたのは予想に違わず羊だった。何頭もの羊が明るい蛍光灯のともる広いとはいえない小屋の中で、一心不乱にわらを食んでいた。小屋にはいくつもの窓があり、その真下には背の低いこどものためにいろいろな高さの踏み台が置かれていて、どうやらそこから羊を観察してもいいらしかった。踏み台のひとつに乗りグリコがそっと窓を開ける。ぼくもその後ろから覗き込む。羊の匂いがして、羊がわらを噛む音がきこえてきた。いったいどこからどこまでが食べるためのわらで、どこからどこまでが眠るためのわらなのか、ぼくには見当もつかなかった。でもとにかく羊に会えたのだ。ぼくたちは喜んで羊を写真に収めた。ぼくたちがいろんな角度から写真を撮っているあいだも、羊はただ静かにわらを食み続けていた。

ぼくたちは大満足で羊にさよならをし、すでに夜景となった札幌の街を最後にもう一度だけ眺めた。やっぱりどう考えても札幌ドームが邪魔だった。街中に不時着した宇宙船みたいなのだ。そしてライトアップされているとはいえ、一人きりで寂しそうなクラーク博士の後ろ姿。伸ばした指の先にはなにもなく、あるいはただ虚空のみがどこまでも広がり、どこにも少年などおらず、大志は札幌の街並みに溶け込んですでに具現化され尽くしており、そのすべてに背を向けて、あらぬ方向をただただ見つめ続けているのだった。

そのようにしてクラーク博士と羊に別れを告げ、ぼくたちはやっとバスに乗った。ぼくたち以外に乗客は誰もいなかった。ふとみると彼女は寝息を立てていた。知らない街でバスに乗ると、突然目的地に着くような気がする。途中のバス停が目的地に近づいていることを教えてくれないからだ。

北海道行きの直前までやっていた仕事で、偶然取り上げられていた炉端料理の店で夕ごはんを食べることにする。ギネスを飲み、中トロと鯨の鮨を食べ、たらばの天ぷらを食べた。じゃがバターを食べ、巨大で脂ののったほっけを食べた。あとはなにを食べたか忘れた。北海道的なものも、北海道的とはいえないものも、口にするなにもかもがおいしかった。近くにこんな店があったらいいなあとおもうような店だった。

それから歩いてホテルへ帰る途中、雪が降りはじめた。

2004, 11, 15, Monday

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