« そこにはいつものように「なにか」が | メイン | ヒッチハイクみたいに(京都一日目) »

ウィッグ・ビーチ

2005,01,31,Monday

夕方になってから美容院に行く。重い腰を上げてようやく。昔はこんなではなかった。月に一回とか二月に一回とか、ちゃんとまめに通っていたのだ。自分でも信じられないけれど。

夕暮れの空はちょっとびっくりするくらいきれいで、自転車を止めてしばらく見入ってしまうほどだった。奇妙に澄み切った冬の空はやけに広く感じられ、それはもちろんこの地域一帯には高いビルなどといったものが一切存在せず、ぐるりと周りを取り囲むようにあるくっきりとした山々の稜線に嫌でも視線がぶつかることになる、という環境のせいもあるのだろうけれど、それにしても今日の空はあまりにも広く感じられ、まったくこの世のものとは思えないような景色だった。誰かが高い方から順番に青い絵の具を何度も重ね塗りしているみたいにじわじわと空は濃紺に置き換わってゆき、それは明確な境界を持たないまま夜へと雪崩れ込んでいった。塗っている本人ですら気づかないくらい、ゆっくりと少しずつ世界は夜へと変わっていった。深呼吸すると肺の中までもが青のグラデーションに染め上げられてしまうような気がした。朝日が昇るまで、人々の肺の中も夜なのかもしれない。

この前美容院に行ったのもたしか半年ぶりだった。美容院のスタンプカードを見たら前回訪れたのは7月31日。その前が1月30日だった。この無意識の規則正しさはなんなのだろう。というかそれが自分自身の容貌に対して許容できる限界ということなのかもしれない(といってもたいした容貌ではないのはもちろんのことです)。半年ぶりだから仕方がないのだけれど、信じられない量の髪を切ったり梳いたりしてもらい、しかもそれは閉店間際のことで、ほとんど申し訳ないくらいだった。床の上の黒々としたかさばる髪の毛たちは、とてもじゃないけれどさっきまで自分の頭の上にあったものなのだとは思えなかった。

深夜、CSで『17才』を観た。なにかが頭の片隅に引っかかっていて、これは観なきゃ、とすぐに判断したのだけれど、映画を観ているあいだずっとそれがどうしてなのかさっぱり思い出せなかった。どうしてこれを観なくちゃいけないんだろう、と。映画が終わるときになってやっとその理由が判明した。エンディング曲が七尾旅人の「ウィッグ・ビーチ」だったのだ。

こうして考えてみると、人の記憶というのはたいしたものですね。本人にしっかりとした自覚がなくても、その記憶は確実に行動を促しているわけだから。

ぼくはこの年になってまざまざと感じるのだけれど、ある限定された年齢、たとえば「17才」というものの特権性は、究極的にはそれがなんら特権的ではない、という事実から来ているのではなかろうかと思う。逆説めいた言い方になるのだけれど、つまりそれは一般的にはなんら特権的な性格を有してはいない。「17才」というものは、どう考えても一般的に、その一般性において語り尽くすことのできる種類のものではないからだ。ぼくときみの「17才」は限りなく違い得る。だとしたらそこにある特権性は、本人以外の誰かが容易く語れる種類の事象ではないはずなのだ。

だがそれゆえに特権的である、ということもできる。ぼくたちは生きていく上で、天寿を全うするその日まで、ある特定の月日が特別だったという思いにだんだんとらわれなくなっていくだろう。ぼくたちは自分で年を重ねていってはじめて、すべての月日が同じくらいの遠い距離として手に届かないことを感じるだろう。あるいは全ての月日が等しく手の内にあるように感じるだろう。「17才」が特権的なのは「17才」の人にとってだけであり、そういう意味ではぼくは彼女たちに共感するわけにはいかなかった。ぼくはもう「17才」ではないからだ。

映画がはじまるころ(深夜1時)にぼくはビールを飲みはじめ、気がつくと朝の6時まで焼酎を飲んでいた。ぼくはほとんど酩酊状態で、文章をたくさん書いていた。ぼくはなんとなく長袖のTシャツをめくってみた。『もののけ姫』の「アシタカ」が受けた呪いとそっくり同じ場所が不思議な感じに赤く染まっていた。その呪いは、ぼくが酔っぱらっているという事実を告げていた。

2005, 01, 31, Monday

comments

コメントしてもいいよ

コメント登録機能が設定されていますが、TypeKey トークンが設定されていません。