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お好み焼きというものは、そうそう何枚も食べられるものではない

2004,05,06,Thursday

朝起きて、昨日すでに知っていたがそのまま放置しておいたグリの吐いたやつを片づける。もう一カ所吐いてるんだがそれは放置。マフラーの上に吐きやがって。オレの小沢健二のビデオの上に吐きやがって。こないだ買ってきたグリのえさがなんだか味が変わったらしく、店の人はおいしくなったとかいっていたが、グリは繊細なので食べてないみたいだ。心配だ。ブロスのこともあるし、また尿道結石になんなきゃいいんだけど。DCPRGのライヴビデオを観る。2時ごろマックに行き日記を書いていたらあっというまに3時半になっていて、あわてて電車に乗る。渋谷へ。井の頭線で駒場東大前へ。あいかわらずの混雑ぶり。教室の前に列を作ってるので、知らない人が見たら何事かと思うだろう。今日はプレモダンの話。モダンを宣言したことにより副次的に生まれることになったプレモダンという区分の、モダンが切り捨ててしまった豊穣さについて。つまり文学でいえば、樋口一葉だな、たぶん。今日はたくさんのジャズを聴いた。ジャズ喫茶みたいだ。今度は飲み物を持って行くことにしよう。講義が終わり池袋でグリコと待ち合わせ。の前にリブロで菊地成孔『スペインの宇宙食』。グリコがやってくるのが見えた。ミッチーといっしょに。ミッチーはグリコの幼なじみで、今日は偶然会ったそうだ。勤め先の最寄り駅が同じだということが判明したらしい。二人はお互いにそのことを知らなかった。ものすごく家が近い、という友だちはたぶん二種類に分かれる。常に行動をともにするような、家の近さが身体的な距離に還元される友だちと、いつでも会えるという心理的な距離感を離れていながらも保ち続けられる友だちとに。彼女たちはもっぱら後者のタイプだろう。ミッチーは派遣社員であり、そう長くはないスパンでちょこちょこと勤め先が変わる。だからグリコは知らなかったわけだ。そしてグリコが今の会社のある場所に通うようになったのはごくごく最近のことなのだから、ミッチーもそのことは知らなかった。彼女たちはお互いに、どうしてこの駅にいるのだろう、と思ったといった。そりゃそうだ。こんなに広く、こんなにたくさん駅があるのにもかかわらず、幼なじみがそこにいるんだから。そういうことが起きたり、そういうことが起きたという話を聞くと、なんだか涙が出そうになってしまうのはどうしてなんだろう。都市という極めて匿名的な空間の中では、当たり前のことだが、ぼくたちの本当の名前は剥奪されている。いやいや、そんなに大げさなことをいってるんじゃないよ。ぼくはたとえば山手線の車内で隣り合った会社員とおぼしき男性の名前を知らない。それは向こうだって同じだ。彼はぼくの名前を知らない。そうじゃなきゃ、大変だ。それは都市に入るための儀式で、一人一人が名前を持ったまま、このような都市を形成するなんてことは不可能だ。いちいち挨拶するわけにはいかないからだ。路上は、立ち止まって挨拶する人だらけになってしまうに違いない。それじゃあ極めて効率が悪い。名前は実はなんだっていい。同じ審級に属していることが重要なのだ。だから厳密にいえば都市においてぼくたちは名前を剥奪されているわけではない。名付け直されているのだ。たとえば「人の群れ」とか、「人波」とか「サラリーマン」とか「OL」とかに。ぼくたちはそれでもぜんぜん平気だ。というか、都合がいいことの方がむしろ多いくらいだ。抽象化によって「私」の濃度は薄まり、よほどのことがない限り、みんな穏やかにとまではいわないまでも、きわめて円滑に事を運ぶことが可能だ。だが本当だろうか。「私」はむしろそのような場からの疎外としてのみ感受されるものではないのか。「本当の私」とか「近代的自我」とかいうやつだ。これは内面というものが風景描写によって成立していったことと同じだ。本当はそんなものは存在しない、という意味で。存在しないものを中心として存在するという両義的な存在様式に則った「私」は、だから現実との齟齬を起こしやすい。だが時として、都市の中で、稀にぼくたちは知っている名前に遭遇する。そこでは知っている名前は、まるで自分の一部分みたいだ。かつて失われ、もう忘れていた機能の一部がみるみる回復するかのようだ。誰かを知っている、ということは単に名前を知っているということでも顔を知っているということでもない。自分が知っているということを相手が知っているということを知っているということだ。そのことがどうして喜びなのだろう。喜び、というか、なにかノスタルジックな感動を呼び起こしさえする。コミュニケーションの本質は、偶然の出会い、ということと大いに関係があるに違いない。ぼくたちの話すことは、ほとんど偶然発せられて、ほとんど偶然理解される、されたように感じられる。なんだかよくわからなくなってきたな。

そんなわけで、ほとんど邪魔者感すら漂うぼくを交えてごはんを食べに行くことに。グリコが最近北口にお好み焼き屋ができたという情報を入手しており北口へ行ったものの、場所がわからない。iモードで調べたりしているので、ぼくはその辺を歩き回ってとりあえずお好み焼き屋を発見する。探していたお好み焼き屋ではなかったが、なんだってかまわない。なにを食べたってよかったんだし、それがお好み焼きでありさえすればそれで十分だ。ビールを飲む。まだ旅行の続きのような気分だ。そして毎日旅行しているように生活できたらいいなと思う。ミッチーは会うたんびに違う恋をしているな。そしてお好み焼きというものは、そうそう何枚も食べられるものではない。

2004, 05, 06, Thursday

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