« 優雅な生活が最高の復讐である | メイン | 人類の知性の総体 »

そして愛に至る

2004,10,09,Saturday

もし多少なりとも台風と関わり合いになるというのであれば、それはおそらく退屈さとは無縁であるどころかその対極に位置する出来事であり、靴のかかとのような退屈さとは最もかけ離れた体験になるに違いない。はずだ。たとえば、台風の中、恋人に会いに行くことを考えてみればいい。そこには昂揚があるだろう。台風の非日常性という効用が、われわれに極めて迅速に、かつ的確に作用する。つまりそれは退屈ではない。ぜんぜん。障害を超えて、ふたりは、窓の外の嵐によってきこえにくくなったお互いの声をききとるべく、いつしかそばに寄り添いはじめるに違いない。退屈じゃない。ぜんぜん。

この十数年のうちで最も強い。という形容詞が与えられた台風の関東への上陸は、しかしながらその強さにもかかわらず無視してやり過ごそうとおもえばできないわけではない。ということこそがこの部屋の中では問題となる。したがってわたしは台風から雨と風と退屈さを受け取る。そして雨と風から避難することは自動的に可能なのであって、退屈さからどのようにして逃げおおせるのかという命題のみが残されることになるだろう。そしてそれは台風という状況と、本来ならば無関係のはずである。にもかかわらず、台風に外出を阻まれて部屋の中で退屈させられている。という気分を拭うことができないことをわたしは不思議におもう。もし今日が晴れていたからといって外出していたという保証はどこにもないのだが、可能性が奪われていることを実感させられることは、退屈さの原因を容易に台風に転化することによって、よりいっそうその度合いを増すばかりだ。

わたしは一日中ベッドの上で過ごすことにする。そして先日、録り溜めておいたゴダールの映画を観ることにする。こういうとき、ビデオで映画を観るという選択肢が、どういうわけか急浮上してくるのだ。わたしは『愛の世紀』と『そして愛に至る』を観る。ある意味で、退屈さを避けて退屈さの最中へ逃げ込むという倒錯した行為である気がしないでもないのだが、いつ観てもゴダールはゴダールなのであって、それは台風のせいじゃない。

わたしはゴダールの作品を観ることになるたびに、どうしておれはゴダールなんか観るんだろうという疑問が湧いてくるのを押さえることができない。そしてわたしは映画そのものの中にその解答を求める。ということをずっと繰り返してきて、いまだ解答を得るには至っていない。

いつの日か完全にゴダールを理解できる日がやってくる。などとおもっているわけでは毛頭ない。いつ観ても、ゴダールがなにをしようとしているのか、そしてなにをしているのか、ほんの少しでもわかった試しがないのだ。端的にいって、わたしにはゴダールのことがさっぱりわからないのだ。と、いっそのこと断言してしまいたい衝動に駆られもする。だがそこにはそれでもなお、わたしを魅了して止まないなにかがあり、いっそのことその「なにか」のことを「ゴダール」と名づけてしまってもかまわないのではないかという気さえする。

2004, 10, 09, Saturday

comments

コメントしてもいいよ

コメント登録機能が設定されていますが、TypeKey トークンが設定されていません。